後悔日誌(傲慢篇)はその名の通り”傲慢”です。読まれてご不快に思われる可能性もありますため、寛容に見られない方は読まれないようにお願いします。
後悔日誌(傲慢篇) 特別シリーズとして整理掲載しました。(2012年6月29日)
-個人商店の経営品格論-
(初期掲載:2010年12月-2011年12月)
第1回 誹謗中傷論 (後悔日誌 第16回 2011年1月6日) 第2回 宣伝論 (後悔日誌 第17回 2011年1月21日) 第3回 製品開発論 (後悔日誌 第19回 2011年2月11日) 第4回 販売論 (後悔日誌 第20回 2011年2月24日) |
先日、後悔日誌ではクソ偉そうな経営品格論的なことをまた喚くと申しておりました。今回は、上記LEDのことも含めた序章とさせていただきます。 今回、当方は製造を依頼したOEM元の点点照明有限公司(GA LIGHITING(HK)LIMIITED)を、向こうに断って社名を掲載することにしました。現地の社長さんは大変喜ばれて いたそうです。普通、日本の販売元は中国で生産したことをあまり大きく掲載したがりません。消費者に良い印象を持たれることはまず無い上、入荷元を知られたら他の販売 者に取られる恐れがあるからだと思います。 当方が今回このようにしましたのは、製造社に公開することを告げればいくらかは良い緊張感を持ってもらえ、また掲載することを申し入れた反応で相手の品質についての 自信も伺えること、そして実際に購入を決めて頂いた消費者にも公開されている方がされていないよりは安心であるという、これらの点を優先してのことです。 他の販売者に入荷元を実質的に真似され、奪われる可能性があるという点は、ある程度仕方がないのですが、普通、店や会社に常識的な品格があれば、他の企業がごく 独自的に行ったことをいたばやに真似する、奪うということはしないものです。(輸入元が限られていて、偶然そうなってしまうこと等は仕方がありませんが) また、昔から当店が影で下らない店だと揶揄されていることが逆に功を奏します。その下らない店がやっていることを”一流”さんが真似をするわけにはいかないのです。 下らない店の真似はもっと下らないことになります。(笑)揶揄したものにもそれなりに意地もあるはずです。 当店はべつにいつまでも下らない店の位置付けで構いません。^^もともと二流を豪語している店です。それより生き残る方が先です。
脱線しましたが、これは我々の交友店間のメーカー品販売でも多少の儀礼的配慮はありまして、あるお店があまりメジャーではない良いメーカー品を発掘して、仮にそれを 教えてもらった場合や知った場合でも、しばらくはこちらでの販売・扱いを見合わせます。やはり、苦労して見つけた人が最初の利益を得るべきであるという礼儀です。 このような互いの遠慮や配慮をする意識、品位が無ければ、普通は敵にしかならない同業者と友人関係を続けるのは難しいでしょう。ただ単に”互いに知っている”ということ を利用しようとする駆け引きだけの関係になります。 当方のLEDの販売自体も、すでにLEDが観賞魚の世界に現れて数年が経過し、多くのメーカーが発売する中、もう参加してもいいだろうという時期的な見計らいもあります。 ただ、こういったモラルや品格も、最近はなくなりつつあるようです。一般の小売店ならともかく、一流企業が他の中小企業が輸入してメジャー製品に育てたブランドや製品を、 売れると分かったら次々と真似して実質的にシェアを奪うようなことも最近では起きております。彼らの主張では、生き残りをかけた競争に品格など関係ないのかもしれません が、私個人はそのような企業との取引はあまりしたくはないものです。 他店攻撃と焦り さて、昨年の序章につつき、経営品格論と一部改題しまして、我々販売者は本来どのような理念を持って販売や営業を心がけなければいけないのか、そしてお客さんやお 店、お店とお店はどのような関係であるべきなのか、実際の色々な問題や私の店の場合などとあわせながら毎度傲慢論を喚いていきたいと思います。 機関紙の「@-SHOP相談所」の続きと思っていただけますと幸いです。 日本全体で売られている製品の大半は素晴らしい品質、商品であると思います。しかし、企業や販売者の理念は年々低下していると思います。 経営や販売を促進するための方法が論じられるとき、「如何に売るか・買わせるか」というすなわち販売テクニックばかりが念頭にあり、結果、買っていった後のお客さんへの サポートや、購入者が本当にそれを有効に活用できているかという、特に人間的・有機的な気遣いへの比重は非常に低いものになっているように思います。 今回は、私自身もういちどそういう理念を思い返してみたいと思います。 以前から内容の大方はすでに作成しております。内容は大別しており、誹謗中傷論・信用論・宣伝論・製品開発論・販売対応論と、5つに分かれております。 この中で、誹謗中傷論は経営の品格問題の一部とはいうものの、本来は経営論に入れるのが憚られるような”論外”なことなのですが、実際蔓延している問題でもありますの であえて、今一度そういうものが発生する理由も考え、最初に済ませてしまうこととしました。 (ただ、あくまでうわさですが、最近はお店もユーザーも減ってきたためか、全体的にそのようなことも徐々に減ってきてはいるようです。) 以前から、機関紙やページでも誹謗中傷についてはしばしば触れてきました。 まず、誰が誹謗しているかですが、一般の人々がまずあるとして、やはり店や販売者がしている場合が確実にあるようです。 一昨年、我々の仲間の「胃壁の会」の方でネット通の方から伺いましたが、いわゆる自作自演などネット上の”工作”を行っている店があり、それが暴かれた事が胃壁の会の 宴会でひととき、話題になりました。完全にあばかれたと聞いたことには驚きましたが、以前から充分に考えられることではありました。 自作自演まであるということは、誹謗中傷もあると考えてほぼ間違いはないでしょう。 内容的にも、それほどまでにある特定の店や例えば当店に対して、恨み骨髄に達したようなことまで書く必要が果たして一般のお客さんにあるか?と疑問に思えるのです。 お客さんに恨まれるような対応をしたこと、例えば直接的に金額的に多額の損をさせたとか、非常に悪い対応を行ったとか明確な理由があれば仕方がありません。 しかし、私の方ではそのようなことはほとんど覚えがありません。いずれの場合もなんらかの対応・補償をしておりますし、実質的に損をしたのはいつもこちら側です。 対応をしたお客様からは、しばしばこちらに申し訳無いというお気遣いを頂く事もあるくらいです。 昔から、海水魚や観賞魚店では他店の悪口を言う店はかなりあり、私自身も直接何度も聞きました。また友人に聞いたところ、魚だけでなく、犬猫の世界でも多いようです。 ある個人の総合ペットショップでは、非常にご店主が辛口のものすごいところがありました。もう、カメ一匹を買うお客さんにでも「この辺の店のカメはみんなサルモネラ菌がつ いている」とわざわざ吹聴していました。そうやって、他の店に猜疑心を抱かせて行かないようにしているのでしょうか。ちなみにこのお店も、もうありません。 また、大きなお店では店員にノルマが課せられているところがあります。こういうところも、少しでも他店に流れないようにするため、付近にあるお店のことをクソミソに言う場合 があるようです。これらは、当時店舗運営をしていた約8年前に、店に来たお客さんからよく聞いたことでした。 これらはネットにある誹謗中傷と同類の罵詈雑言ではありますが、それでも自分の立場を表明して発言しているだけ態度は正当だと思います。 ただ、批判的なことを言うことが必ずしも悪いというわけではありません。お客さんの立場を第一に考え、他店の実態をよく知ったうえで、あのお店はやめておいた方がいいよ という意味でのアドバイスであるなら、それは正当な批判、気遣いであり、決して誹謗では無いでしょう。 ただ、なぜこれほどまでにこの業界に他店の悪口が多いのか、その原因のひとつに品性の低さと慢性的な”焦り”があると思います。 そのお店、あるいは特定の商品に実力で対抗できないことが分かっているだけに、お客に大して悪評や悪口を吹き込み、お客に猜疑心を抱かせて味方を増やし、また相対的 に他店をけなすことで自店の地位を上げたいという、焦りの結果の行動であることが、一番多いでしょう。 焦っていなければ、また勝てる自身があれば、そのような無駄なことはしないものです。あるいは自分が打ち込んでなにかつねに開発し、改善する楽しみや目標を目の前に 常に見出していれば、人の悪口を言うような時間の無駄が勿体無くなるものです。 また、他店の話が出たときに、すくなくとも相手の成功した部分だけでも認めることができること、仮に内心そうでなくても、その見識を見せることで、堂々たる態度を表明できれ ばご立派だと思います。 荒みつつある大衆 さて、誹謗中傷は何もお店だけではありません。ネットの世界では、誰でも気軽な他人や著名人への批評、批判、誹謗中傷ができるようになりました。 いつのまにか、匿名なら何を言っても良いというというような常識ができてしまったように思います。誰が書いたか分からないというだけで何を書いてもよいということではありま せん。匿名性が人々からモラルを奪い、他人を誹謗することでしか、自分の存在意義を確認できない愚劣な大衆、あえて汚い言葉を使いますが”愚衆”を生み出しています。 公論において、愚衆を愚衆と指摘することは大事なことです。大衆から己が攻撃されないために言葉を選んでばかりいては気づかせることはできません。 匿名での誹謗中傷は、まさに便所の落書きです。それを行うことは、同時にもうそれしか方法が無いことを表しています。 下劣な行為は、それを行うことで自分自身の精神をさらにそれに準じたものに変貌させてゆきます。 ひるがえって、自分の名前や存在を明記して勇気ある発言は、それをすぐ攻撃し、また攻撃されるのを恐れます。 (追記)匿名のネットの世界は、他人を軽んじ、冷笑、嘲笑し、そういったことをネット上に書くことになんらためらいの無い人に与えられた非常に罪深い”おもちゃ”でもあるといつ も思います。そういった行為は、本来、公に対して発言するための場所にたどり着くための努力、それにともなく見識や品格の形成を失わせてしまい、人を劣化させていくもので あると思います。 公のためには、批判や時には個人攻撃も必要です。しかし、気軽に他人のことを書きつづる前に、もし自分が同じことを書かれたらどう思うか、自分はなんのためにこれを書く のか、対象を攻撃するような内容でも公のために書くべき内容か、自問自答する必要があるのではないかと思います。 泥沼からの脱出へ 私は誹謗について記述するのは、何も誹謗者を誹謗したいからではありません。このような、便所の落書き的愚行、自分には届かない天に向かってせめて唾を吐くだけの 日常からの脱出を促したいと思う所以です。若者だけではないかもしれませんが、若者がそんなことにふけっていては業界のみならず、この国の未来はありません。 影からの誹謗、悪口というものは、自分の実力の自信や他人からの信用を得られず、また目の前の何かに打ち込んで自分なりに充実した毎日を送れないものが、最終的に いきつく最後の溜まり場、または末期症状であると言えるでしょう。先にも述べましたように、お店では昔から悪口の多い店から順に消えていく傾向があります。 影からの誹謗中傷にふけっているものは、自分がまず今、”泥沼”にあるということを意識し、そこから再出発をしなければなりません。自分の今の状態を正当化していては 抜け出すことはできません。 もし、世の中に対して少しでも前向きな、あくまで公を想って良い影響を与えるために発言するなら、影から誹謗したり、個々の客に悪口を吹き込むのではなく、公が閲覧でき る場所で堂々と自分の存在を表明して”公論”を述べればよいのです。 また、忙しくて毎日することが多ければ、他人の悪口を影から言うようなことは時間が勿体無いです。面白いことに、人を誹謗するものは、誹謗する対象も同じように誹謗してい ると思うそうです。匿名掲示板での誹謗中傷など、もし私がそのような行為に耽るようになったら、経営者として人間として失格であると自戒しております。 充実した毎日を送れば、そのような姑息なことなどまず考えつきません。そのためにはまず忙しい日常を作り出すべきです。忙しければ、下らないことに使う時間はありません。 ちなみに私の場合、日常的な販売業務は今は毎日3〜4時間です。あとは相談や個人的メールに1時間、販売・日常的なホームページの手入れに1時間、あとはここ最近は 店の生体再開の作業・作製に勤しむ日々です。他にも、製品の販売準備、日常の仕事以外にも片付けなければならない仕事が山積しています。基本的に完全な休日は臨時 休業以外では無く、仕事のあいまに抜け出して仕入れや買い物がてらに気分転換に行くくらいが関の山です。以前は、さらにBLがありました。 またもしこれらがすべて片付いたとしても、ホームページの情報追加掲載はいくらでもやるべきことがあります。仕事外ですが、アニメ作成という大きな目標もあります。 一見大変そうですが、全然そうではありません。新しいものを作り出しながら営業を行うのは楽しいことです。なんとかやり遂げればまたひとつ営業に磨きがかかります。 難しいこと、最初は不可能と思っていたことを可能にできた時はとても嬉しいです。 昔から、私が何かをやろうとすれば、かならずそんなことできるわけがないと貶す者がおりました。高校時代、一人で生物クラブをやっておりましたときも、まず冷笑と嘲笑の対 象でしたが、結局、それは大人になっても本質はなかなか変わらないのかなあと思います。人が努力したり苦労している姿を見て、立派だと思えるか、それとも冷笑して失敗を 期待するだけか、自分自身の精神を省みて確認してみればよいと思います。 まずは、そのような各個人にとっての充実・充足の日々を作り出すことが、泥沼から抜け出すためにはもっとも良い方法だと思います。 良いことをして自分の信用を増やすことができないため、他人を攻撃し混乱させるものは、愚劣かつ下劣としかいいようがありません。 「人を落とすのではなく、自分を上げるのだ」ということを信条にできるようになりたいものです。 補足 他店製品のことを聞くことについて 内容が内向きですので、あくまで補足です。最近気づいたことで、誠にうっかりしておりましたことがありました。 自分のところに他の色々な製品のこと、最近ではネットで出回っているLEDライトのことなどを聞いてくる人が多いということは、当然当店の自社製品についても他のお店に聞 かれているだろうということを、最近まで想像しておりませんでした。まことにうかつでした。 これはかなしい現象です。売っている店に聞かずに、他店に聞こうとする傾向です。他店なら厳しい意見を聞けるだろうということです。まさしく、その通りです。しかし、厳しい というより悪口がほとんどです。「海水館の還元ろ過BOXってどうなん?」ときけば、「あかんあかん!あんなもん。使ったら水槽全滅するで」という答えが関の山です。 「あれは確実に効果がある」と言えるお店があればご立派です。活性底面BOXはすでにこの6年間ほどで5000個程を販売しました。この中で、お客さんから寄せられた問題 やクレームはページに出しております通り、あれがすべてです。しかもその中から「やはりあれは、活性底面BOXのせいではなかったので掲載を消して欲しい」というお知らせ も頂きました。私はそれに御礼を申し上げた上で、警告のためにも掲載させて頂きたいとお願いして掲載を継続しています。というより一度掲載したものを下ろすことの方がか えっていらぬ疑惑を招くと思ったからです。 しかし、なぜか「私の知っている人が、あれを使って水槽が全滅したと言っていた。」という書き込みや噂が色々なところに出るようです。 無論、不幸にして効果が確認できず、またトラブルを心に納めてくださっている方もきっとおられるでしょう。しかし5000個も販売し、その中でそれほど多くの事が本当に発生 しているなら、私のところに直接の相談や問い合わせがもっと増えるはずです。あれだけ色々な飼育相談や時にはオークションの揉め事の相談までされる一般の方々が、ま さしく当店で購入した製品の不具合に何も言われないということは、どう考えてもおかしいのです。 実は昨年、販売を開始して、効果が感じられないので還元ろ過BOXの返品を希望されたお客様が初めていらっしゃいました。6年間で初めての事でした。非常に残念に思い、 よくお願いして相談させていただき、使用方法の改善をお願いした結果、十分とはいえないまでも効果が確認でき、ご了承をいただけました。 あまり言いたくはないのですが「効果があった」というお知らせは今まで数え切れないほど頂いております。私が言わなくても、ブログなどに掲載されている方も多いそうです のでそれはご理解いただけるかと思います。効果があって当たり前です。効果が無いものを売っていればそれこそ詐欺です。 ただ率直に言いまして、心の狭い、また経営に行き詰っていたり違法物を平気で売るようなモラルのない店が多い海水魚店が、自分に利益の無い他店を正当に評価するなど ということはまずないということは間違いありません。それだけ誠実な人が多ければ、この業界がこれほど廃れてはいないでしょう。 長くなりましたが、品物の判断は他店に聞くのではなく、まず販売・製造者自身のデータ、そして一般の使用者のHPやブログを参考にされるのが一番です。また売っているそ のお店自身の言うことが信用できないなら、いずれにしてもそのようなお店でものを買わないことです。 「信用できないが、その商品は欲しい」ということは、ある意味で矛盾しています。 これは、売る側でも同じことです。こちらが宣伝文句をいくら盛大に書いても、今のお客様は信用されません。 もう「新製品は他人が使っている様子を見てからしか買わない」というのが現在のスタンダードです。 販売者は他店の信用に外部から罵声で誹謗をくわえても無意味です。そんな非生産的なことをするくらいなら、自分の信用を築く努力をした方がよほど建設的でしょう。 極まれに、活性底面BOXのウソを暴くというような目的で購入される方もあったようですが、効果が無いということを暴露したいために、わざと効果が発生する前のわずか一 週間程度で使用を打ち切り、それ以来、効果が無いと周りに言いふらすような方まで過去にあったそうです。ここまでいくと、もう異常です。 当店も嫌われたものです。まあ、一人でいい子ぶっているものがよほど許せないのでしょう。他では、当店で扱っている生体をなんとか”違法物”と呼びたくて必死になっている 人も居られました。一流の有名業者から仕入れ、当店がアップしたものをページ上で見つけ、その業者のルートが少しでも怪しいといううわさがあれば即電話やメールを出してき て、「あんたも所詮一緒や・・笑」みたいなことを言いたがるのですね。 これは、泥沼の中からでも誠実な青葉を出そうと努力する人をなんとか泥沼にひきずり戻したいという亡者の心理です。 己の心を止観しなければ、気がつけばこんな哀れなものに成り下がるのです。恐ろしい事です。 長々と鬱陶しい話で失礼いたしました。 さて、新年早々このような嫌な話は今回だけにしまして、次回からは本当に品格を互いに磨くための真に重要な内容に入って行きたいと思います。 -------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------- 宣伝とアピール 前回は醜いお話で申し訳ありませんでした。今回よりやっと本筋です。 商品をより販売するために、宣伝という行為があります。これは、ごく当たり前の行為であって、店先に商品を並べていること自体、ネットで品物を掲載している販売行為自体 がすでに宣伝の一種と言えると思います。 私はこのいわゆる宣伝という行為が基本的に嫌いであるためは極力控えているつもりですが、それでも売ろうという行動はそれがすなわち宣伝行為でもあり、売うるつもりが 無いなら販売など行うなということになります。商品を少しでも売るために宣伝をする、いわゆる営業をするということ自体は、決して不誠実な行為ではありません。 私は個人的に、会社のいわゆる営業のお仕事をされている方は本当に大変であると常々痛感し、その意味では、ノルマも何もない気楽な仕事をしている自分が申し訳なくな ることが多分にあります。 ただ、宣伝の中でももっとも慎重を要し、もしかすると行わない方が良いかもしれない行為が”アピール”です。アピールは必ずしも誇大宣伝ではありませんが、メリットを強 調しようという行為です。強調するということは、単なる数字の情報として宣伝をするのではなく、イメージ的に強く印象付け、優れていると思わせたいという意思の行為です。 私は特に自己の製品の”アピールをする”という行為が苦手で、自社製品が優秀であることを声高に知らしめようとする行為自体に嫌悪を覚えてしまいます。そのような行為 は、仮にそれが事実であってもとにかく自社の製品が良いということを言い聞かせて信じさせようとして必死になっている”浅ましさ”をさらけ出し、結果的に長い目で見た信用 が下がることを感覚として実感しているためです。いわんや、我々のような社会的信用が薄い零細企業(?)経営者ではその浅ましさが益々強調されます。 ただ、だからといってアピール的なことを一切してはいけないとすれば、製品カタログもホームヘページ等もあまりに味気なくかえって不自然なことになり、当方の活性底面BO Xのような「この会社は売りたくないのか?」と誤解されてしまうようなことにもなりかねませんが、やはりここは品位というものが必要になるでしょう。基本的に、控えめな表現 がよいのではないかと思います。私のところに、80年代のパソコン雑誌が少しありますが、当時の宣伝広告はなんとも情緒があり、今となっては広告ページ自体も目を楽し ませてくれるものです。このようにありたいと思います。 ただ最近はテレビのCMや広告を見ても、とにかく押し付けがましいインパクトと印象付けでセールストークの嵐のようなものが多く、見るのが嫌になってしまいます。 製品のメリットを直接強調しなくても、ただ事務的にデータを掲載し、客観的な値段や性能で勝っていれば、間接的に勝っていることを語っていることになります。 しかしどうしても直接的に「優秀さ」ということを広言、すなわち”アピール”する風潮があります。このアピールは、すなわちセールストークであってもはや当たり前のものになっ ていますが、セールストークとは名前の通り、売るための宣伝文句です。アピールは結果的にメリットを強調し、デメリットを隠すか、あるいは比較的過小に印象付ける物です。 私は、極論すればこの販売におけるアピールという行為自体が間違いなのではないか、あるいは誠実さを追求するならメリットを強調することは控えるべきなのではないか、 あるいはメリットとデメリットは公平に表現するべきではないかと思っております。そのような地味で誠実な販売・営業こそ、長い時間をかけて信用を頂けるものではないかと 思います。私も過去にはそのようなアピールの意思があったかと思い、今はひとえにそのような表現が無いように注意をしているつもりです。 誇大宣伝の愚 仮に、ある商品に100の性能、または価値があったとします。しかし、宣伝文句にはイメージ的にそれが150も200もの性能や価値があるように印象づけようとしていることが よくあります。消費者もその点はすでに理解、一歩引いて見る体制ができている場合が多く、最初からそこまで期待していない面もあります。メディアリテラシーということばがあ りますが、そもそも情報を読み手に取捨選択されているような程度の信用しかもってもらえて居ないこと自体が、長年の販売・宣伝の姿勢と行為が不誠実であったというひとつ の証拠のようなものではないかと思います。 仮にその製品がよく売れたとしても、信用はあまりされていないということになります。値段と性能から見れば、得だから買った。ということです。ということになれば、本来の価 値以上の宣伝文句を並べ立てていることは、実際にはなんら意味を持っていないということになり、単に自分達の信用を自ら低下させているだけということになります。 これは、一時は「そこまで大言壮語を言うのだから、まさか酷いものではないだろう」と思われ、一応売れていくため、それでよいかもしれません。 しかし、これはもう、販売側の言葉通りには受け取ってくれない、販売側の言うことなどまともに聞く気などないということが前提のことです。こちらはあくまで売りたがっていて、 それを前提にものを言ってくるという、かまえられた上での関係にしかなりません。要するに、売れてはいるものの、あまり信用はされていないということです。 これは一つのお店や会社がこれから長い間お客様と関係をもって営業を続けていくには決して好ましいことではないと思います。 しかし、もう多少のことはいまや常識化してしまい、あまり抵抗もありません。 お菓子のパッケージひとつ見てもそうです。パッケージに書いてある写真と中身を比べれば、どう見ても写真の方が美味しそうで、形も色も内容物の実相よりあきらかに良い 写真であることが多いです。しかしこの程度のことで、販売者に文句を言ったり違和感を覚える人はまずいないでしょう。それが普通になってしまっているからです。 しかし本来は、パッケージには内容物を可能な限り正しくイメージさせることが誠実な者のすることのはずです。我々は、今常識になってしまっていることを今一度振り返る 必要があるのではないでしょうか。 真の”イメージアップ” 販売者が誠実な態度を取り、真にお客さんを感動させたり、公や全体に対する貢献を行った結果、イメージがアップされたということは、正当であり、素晴らしいことです。 しかし、単にイメージをアップさせるためだけの行動を取ろうとする心理は、「人からよく思われたい」という欺瞞的な心理の拡大版であり、虚構的、虚偽的なもので、そのため の行為は単なる宣伝、プロパガンダと言えるでしょう。 本来は、イメージだけをアップするのではなく、実体、実相をよりよく向上させることだけに集中するべきであって、イメージなどはその結果として自然に形成されるものです。 これは昔の人は当たり前のように思っていたはずです。しかし、昨今当たり前になっているPR,宣伝行為を重要視しているうちに、地道な努力ではなく、これら宣伝行為だけ で人を集めたり効果的な集客を行おうとする安易な傾向ばかりが増えてきたため、それを使ったイメージ操作で自分達に都合の良い世間からの見方、信用をつくりあげたいと いう、はっきりといえば姑息なものの考え方が、定着しつつあるような気がしてなりません。これは非常にゆゆしきことではないかと思います。 他者から見た自分達への評価を、努力無く向上させたいという不誠実な意思がこのイメージアップという行為を取らせたがります。 これは、目先の商品をとにかく売りたいために、商品のメリットばかりを声高に宣伝する、または誇大宣伝と根元は同じです。 このようなことを長い年月繰り返していれば、その企業体やPRの媒体自体の信用がやがて低下していくのは当然なことです。 誇大宣伝は、極論すれば”嘘”に類するものです。しかし、先ほども述べましたようにすでに消費者は販売側の宣伝文句など、最初から誇大であることは承知の上という状 態です。 冒頭にも述べましたが、私は、ある時からこのような販売方法では長い間お付き合いするお客様の信用を得ることは不可能であるという考えとともに、誠実なもののするこ とではないという風に考えるようになり、今では一般の商品のメリットばかりを誇大に宣伝するPRのやり方に嫌悪感を覚えるようになりました。 当方の製品のように、メリットの宣伝を抑え、危険性を逆に強く明示して販売をしていれば、目先の売上げはなかなか伸びません。しかし、そのような販売姿勢を長期にわた って見て頂いた方からは、その会社や経営者の理念自体に信用をいただけるようになると思います。そしてそのように形成された実体に基づいたイメージは、早々簡単に崩れ るものではありません。堅い商売で堅い信用を作っていきたいものです。 当店の場合 口コミのお陰様で(※追記・訂正23日) もし、インターネットが無い時代であったとしましたら、通販は非常に難しく、お店の存在も知りえなかったため、店を経営するために最低限の広告や宣伝もいくらかは必要 であったでしょう。そういう意味で、私のところのような通信販売とはまさにネットが可能にしてくれたものと思い、本当にありがたい時代と深い感謝を覚えます。 当店は宣伝広告費というものをほぼ一切かけておりません。雑誌に広告を出したことなどただの一度もありませんし、今後はまだわかりませんがネット上での特別な広告 掲載を行ったこともまだ一度もありません。 交友店さんに訪れたメーカーさんが活性底面BOXを見て、「これ・・売れているそうですね・・・。」と悲しそうに言われたそうです。私はどれくらい売れていたらよく売れている というのか分からないのですが、メーカーさんが知っているほどでしたら一応売れている部類に入るのでしょう。ここ数年では変わらず月に70〜90個の出荷・販売です。 ただ重要なことは、これはこちらからは特別な費用をかけた宣伝を一切していないということです。 費用をかけていますのは自分のホームページ・ネットの料金毎月¥3000程度と、昨年8月からはカートショップのレンタル料金¥2500程度、合計月¥5500程度のみです。 また、当店のことをある程度ご存知の方は理解いただけるかと思いますが、これまでもそしておそらく今後も、観賞魚系の雑誌が取材に来たり、当方の製品を好意的に取り 上げるなどということはまずありえません。かつて、なぜ活性底面BOXが雑誌等で一度も話題に上らないのかと疑問に思われる方も居られました。今更その理由をまたぞろ 申しますのも空しいので控えさせていただきますが、ようはそのような状態でも人気商品にはなりえるということが証明されました。ゆえに、経済的に大きなことが出来にくい 新しいお店や起業にも、十分に可能性はあるということです。 活性底面BOXを筆頭に当方の見た目怪しい製品をいくらかでも買ってもらえていますのは、ひとえに多くの方の口こみや、ホームページなどで取り上げて頂いているため です。手前味噌ではなく、実際の使用者の方の報告ですからこれ以上一般の方から信用される宣伝効果はないでしょう。広告宣伝費で何十万円をかけるよりはるかに有効 であると思います。 このように一般のお客様にいわば宣伝媒体になってもらうためには、良い製品の開発と、誠実で誇大宣伝の無い情報公開と一回一回の販売、そしてお客さんの立場にた って、相談などに対応することを繰り返していれば自然に出来上がってくるものですが、最近はこのようにすぐに結果の出ない地道な努力を軽視し、結果的に一人一人のお 客さんへの対応、販売を怠り、それでいてすぐに結果が出る方法ばかりを追い求め、お客が何か相談してくれば製品を売るチャンスとしか捕らえていない傾向さえあるように 思います。その結果、お客さん側から見れば宣伝だけが派手で誠実さを広言している割に、実際に買ってみると対応は悪く、期待していたほど製品も良くないということが起 こりうるのだと思います。 私は相談を受けたときに、少しでも無駄なものを使わずに買わなくて済む方法を考えて答えます。ご出産やご結婚を控えらている方には、海水魚そのものを休止した方がよ いと申し上げ、水槽を処分する方法を相談したこともなんどか覚えがあります。(もちろん多くが遠方ですので当方が買い取るとかそういう話ではありません。)これは仕方が ありません。相手の立場にたてば、そうするのが一番であると思うためです。 私が宣伝広告に類するものを極力控えていますは、今広告を掲載したくなるような誠実で読者を真に利し、しかも業界を良い方向へ導こうという善意を持った雑誌等が私の 知っている限り少ないということもありますが、何より一般のお客様がご自身のホームページ等で評価くださること以上の宣伝は存在せず、それ以上態々お金をかけて宣伝 する必要がないという二つの理由があります。 ひとつふと振り返ってみまして、一般の皆様が最近の雑誌に掲載されている情報と、個々人の方が公開されているホームページやブログなどを比べたとき、一体どちらが 信用できるでしょうか。もしウーンと悩むようでしたら、この時点ですでにもうおかしいはずです。お金を取って売っている情報が、無償で公開されているものより品質が劣ると いうことは本来あってはならないことのはずなのです。 商売の基本的な原則は、購入者に役立つ製品、サービス、情報等を提供し、その対価としてお代金を頂くことです。 情報の場合ももちろんそうです。仮にそこに広告が入るにしても、それはテレビと同じ”CM”であって番組の内容まで広告主へ過剰に配慮され、太鼓持ち(※本来の太鼓持 ちはそのようなものではありませんので誠に失礼ですが)るようならもはやその番組はすべてCMに準じたものと言うべきでしょう。如何に口先だけ読者を第一にしているよう に装っても、実際は二の次にして長く愛される訳がありません。これだけが原因ではないですが、結果、雑誌の世界も現在、深刻な出版危機です。 これは当方らの業界と同じく、表向きだけ誠実さを装い、長い長い間消費者を影で裏切ってきたことへの当然な反作用ではないかと思います。 最近、雑誌類が広告料を払っている会社しか記事で取り上げないという傾向が強くなっているという噂を耳にします。 私の誠に狭い了見では、そんな雑誌に広告を出していること自体が長い目で見て間違いであると思います。絶対に業界のためにはなりません。太鼓持ちに金を払っている うちに、利益誘導のためのいい加減な情報が乱発・流布され、業界とお客さんの知識がぐちゃぐちゃにかき回されます。混乱のあとに待っているのは失望と撤退です。 この手の話をしだしますと際限がありませんのでお話を戻しますが、お客さんがホームページで宣伝して下さること程、心強く効果のあることはありません。しかもこの宣伝 は、噂が噂を呼び自然に増えていくものです。そのためには自身が商品の販売や情報公開を誠実に行い、誇大宣伝を控え、毎日のお客さん一人一人、一回一回の取引、そ して相談などの対応を、自分を相手に置き換えて大事にすることこそ、何よりの近道であると確信いたします。 先日、私に活性底面BOXの最近の全体的な噂を調べて教えてくださった方が居られました。「どうせカス水館のカス箱でしょう?気にしてませんのでお気使い無用です^^;」 などといいますと、とんでもない悪い噂は滅多にないということでした。ブログで応援してくださっている方々のおかげで、誹謗中傷は影を潜めたようです。 このような、懇意にして頂いている方々のお気使いには本当に感謝感激です。厚意に答えられるよう、努力したいものです。 -------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------- 今回は自社で製品を考案し、開発することについて何を重要視し、基本的な理念とするべきかを考えてまいりたいと思います。 あくまで、当方の粗末な製品のように、零細企業がちょっとしたアイディアを使って自社製品を企てるというような場合のごくごくせこい商品化の場合とお考え願います。 また、これから述べようとするようなことは、実際には多くの会社や企業が、自社のコンプライアンスや理念として既に持っているはずのものであり、誠に今更な話ではあり ます。しかし、現実はその理念とはだいぶかけ離れた状態にあります。本来こうあるべきであるということを、理想論と冷笑するのは容易いことですが、実際その冷笑には何 の価値もありません。重要なことは、理想を理想とあきらめず、それに少しでも近づき戻ろうと努力することであります。 販売・製造者の良心 例えば私がオリジナル製品を考え、販売価格について考える決めるとき、もし一般の方が1個を自作をした場合、あるいは1個を入手した場合の価格を想定し、一つの規準 にしています。自作を考慮し、御買い得でなければまず買ってはもらえません。それでも、たとえば還元ろ過BOXは複数買うならデニトロゲンや材料を買って自作すれば少し 安くなるということで、自作をされる方は多いです。ただ、苦労して自作された方曰く、1〜2個なら買うのと自作するのと、どちらが得か微妙です。 お金を頂く以上、わざわざ当方で買ってもらう意義がある値段と品物でなければなりません。ゆえにこれがひとつの基準です。 さらに、活性底面BOXの重要な心臓部分であるメディアのデニトロゲンについて考えてみます。 還元ろ過BOXの材料のデニトロゲンやそれに相当する還元ろ過に使用できる生分解性プラスチックは、観賞魚用品で僅かに流通しているもの以外ではほとんど入手不可能 です。そもそも、生分解生プラスチック自身、生産にコストがかかるうえ、プラスチックとしての物性も悪いので環境対策以外では使う理由が無いため、あまり使用されていな い傾向があります。その上、還元ろ過に使用できるものは、乳酸系または微生物産出系と呼ばれる生分解性プラスチックの”純粋なもの”ですが、まずこの純粋なものが国 内では汎用に使用法が無いため、生産されておりません。なぜなら、純粋な生分解プラスチックはプラスチックとしての物性が著しく悪く例えば溶解するとアメのように器具 に非常に難解に粘着してしまい、整形に大変な支障があり、汎用品は必ず物性を向上させるために数割の普通のプラスチックを混入させます。これが汎用的な生分解生 プラスチックです。 ところが、この混ぜ物がされたものは純粋に比べると分解生がほとんど皆無かと思われるほど悪くなってしまいます。かく言う私も、今のデニトロゲンを手に入れる前に各 社から取り寄せて試験した生分解プラスチックで、だめだったものを庭に埋めてすでに5年以上も経過しますが、いまだに土を掘り起こすとまだ分解しておらず、出てきます。 ですから、以前成分解性プラスチックでできたBB弾やなんらかの製品を還元ろ過に使用された方が居られましたが、これらは残念ながら全くといってよいほど効果がありま せん。 これは実際当方にとってもやがて来るべき問題になることで、デニトロゲンの在庫はまだ数年分はありますが、それ以後は国内の生分解性プラスチックメーカーに契約して、 特定の還元ろ過に使える純粋生分解プラスチックを製造してもらわないといけません。このときには、最低でも数百万の費用が必要になる見通しです。本来、個人や一軒の 個人店が用立てられる金額ではありません。 話を元に戻しますが、だからこそ割高でも価格的に安価な”小売”を行い、一般の方に買っていただき、その差額で利益を頂く値打ちがあるわけです。 同じような理屈で、今売っている補給材(添加剤)を作ろうと思えば、まず各種の薬品を薬品販売社の信用をもらえる状況をつくり、それらをそろえなければならず、仮に1本の 添加剤を作るとしたら材料費・電子天秤だけで5万円以上、それに使用実験などをくわえれば数ヶ月の時間とさらに実験生体や器具のコストが多分にかかります。だからこそ やっと販売を開始した後、仮に一本の材料費が安くても一般の方に買ってもらえる程度の範囲内で高い利幅を頂いても良いだろうと思うことができます。 上記はだいたいが当方の内情ですが、このように、一般の方が1個を購入できるように、こちらが努力して大勢分を用意・生産し、それによる利幅を頂戴するという、大勢の 消費者のための役割を実質的に果たして、利益を得る基本原則を忘れてはいけないと思います。 そうでないと、後述しますがただの角砂糖や砂糖水を特殊なもののように言って高価に売るようなことを平気でするという、詐欺もしくは詐欺まがいになってしまいます。 詐欺的製品とは あえて汚い言葉を使いますが、最近、己が金を儲けるため、他人を騙そうが損しようが泣こうがよいという”人間のクズ”が増え、詐欺性の強い販売や詐欺まがいも増えて きました。 先日、あるお客様から聞きましたが、当方の製品を詐欺呼ばわりする店があるそうです。 それにつきましては、後程触れたいと思いますが、明らかに悪影響を及ぼすと分かっているものを売りつづけたり、トリートメントもしておらず販売後わずか数日で死亡する 魚を売りつづけている事はある意味で詐欺と言えるのではないでしょうか。これを詐欺というのであれば、そのようなお店はいくつもありますが、不思議なことにそのように自 分が悪質な営業方法をとっているものほど、他人を罵るものが多いのです。誹謗中傷論でも述べました通りです。 自分の他人からの信用に自信が無い人間ほど、他人をけなして相対的に自分の信用を高めようとするものです。 詐欺的な商品や販売方法も、しばしば見向けられます。たとえば、製品の危険性やデメリットを隠したまま販売するのも、ある意味で詐欺的です。還元ろ過関連の製品にも そういうものが時々あります。過去にありました還元ろ過BOXの模造品、また還元ろ過BOX自体を6倍の値段で転売していた者はまさに詐欺師そのものです。 余談ですが、 以前この転売者と直接文章で通信をしたことがありましたが、行為と同じく文章や態度も本当に品性の無い人を舐めきった態度そのもので、やはり人は行為によってその品 格が創られるということを痛感した次第です。 このような正味の詐欺はもとより論外ですが、普通の商品として売る場合も”詐欺まがい”にならないよう、心がけなければなりません。 以前、何度かふと頭をよぎったことがあるのですが、もしただの砂糖水を”還元ろ過 活性底面液”などと言って¥1500ほどで売れば、大ヒットはしないまでも間違いなく月 に数本は売れます。底砂やライブロック等の還元ろ過層がある水槽に砂糖水を投入すれば、急激に還元が起きて硝酸塩が減る場合があります。(ただし、不特定多数の細 菌も猛繁殖しますので危険性も多分にあります。) しかしこんなことは、当方のコンプライアンスとして、また主義として良心が許しません。ごく当たり前に存在する一般品、日用品を特殊な物のように偽って破格販売するなど と言う行為は、モラルに反します。また、これが世間に知れた時「海水館はただの砂糖水を売っていた」と言われて今後信用されるでしょうか? いずれにしても、このようなことを私は”詐欺”と位置付けています。 しかし、今の世の中にはこういうことを平気でやれる”詐欺師”または”人間のクズ”は居るということは留意しておいた方が良いと思います。 怪しいと思うものは止めておくのが鉄則 私の印象ではお客さんの品質に対する目、価格への目というのは本当に厳しいはずなのですが、その一般の方がなぜみるからに怪しいものや商法にも引っかかってしまう のか本当に不思議と思います。 メーカー品などを売っていて痛感しますが、こちらが利益をだせる価格で売りに出していてもテコでも売れず、底値を割って仕方なく赤字特価にすればやっと売れるという現実 をいつも思い知る中、どう見ても怪しい、価格も高価な製品を簡単に購入されるとは、なぜなんだろうと本当に疑問です。 先日も、岡本ホテルの岡本倶楽部事件で、8000人もの方が被害に会われたと見て、なぜこんな怪しい誘いに数百万以上ものお金を出す人が多数いるのだろうかと本当に 疑問に思います。やはり、セールストークを信じてしまったということなのでしょうか・・・。 我々商売人は、セールストークが激しい人ほど信じないという習性があり、試す前にインチキ臭いものはプンプン臭ってきますので絶対信用しません。 ここで断言させて頂きますが、商品やサービスは、怪しいものはやめておくというのは鉄則です。感覚的に分かる”怪しい”というのは、実際かなり当てになる警告です。 なぜなら、その商品の売り方、価格、公開されている情報はすべてその販売者の意図で設計されたものです。詐欺的な事を行うものの品性や品格は、そういった端々の装い にも随所ににじみ出るもので、それを”怪しい”と直感的に感じ取っている場合が多分にあります。仮にその製品自体にそれなりに効果があったとしても、それは他者のアイデ ィアをかすめ盗み取った、実質的な”盗品”である場合もあります。 そして、悩むなら他人に相談することです。 騙される人が多いほど、ますますそういった詐欺師やパクリ師を喜ばせ、世にはびこらせることになります。 そのようなことしている人は目先の欲に駆られ、永久に他人の信頼を勝ち得ない気の毒な人です。いかに他人を騙そうと、己が儲ければ勝ちと考えている金の亡者です。 自分さえ良いという人は、未来の自分もどうでも良い人が多いです。私が集めている漫画のひとつに魔夜峰夫先生の「パタリロ」がありますが、 その中に「10年後の自分など他人と同じだにゃ」といったようなセリフがありました。このセリフ、なにげないものですが、かなり現代人の真意をついたものがあると思います。 「老いは人生の総決算」とは、私の大好きな金美鈴さんがよく使われる言葉ですが、齢を重ねるほどそれまで送ってきた人生、人に対してとってきた行為と態度の結果とし ての今が色濃く現象化してきます。商売もまた例外ではないということでしょう。 長く愛される製品 観賞魚製品は、もういいというくらい多種多様なものが次々と発売されます。現行の製品でも何も問題はないはずなのに、なぜ完全フルモデルチェンジをしたようなものを 次々と発売するのか、本当に疑問でありましたがある時に業界通の方に伺い、理由が氷解しました。 その理由は、新製品は「作るだけで利益になる」ということでした。すなわち、新製品が出れば当然卸業者や特に大きなお店、ホームセンターなどはいくらかは新製品と して店先に並べようとします。そのために、メーカーは新製品を出すということでした。 が、これはだいぶ以前の話ではないかと思います。 現在、新製品というものは必ずしも良いものばかりではありません。昔の製品に比べて製品全体の品質や信頼性が徐々に低下し、信用も薄れてきました。 これは決して観賞魚用品だけではありません。例えばパソコンですが、昔はこれほど故障はしませんでした。性能は何千倍になったものの、機械的な耐久性は比較になら ないくらい落ちてしまいました。無論、高性能を維持するために機械的にもハードな仕様になっているので止むを得ないのかもしれませんが、それにしても最近の機械はよ く壊れます。 観賞魚に戻りますが、ある製品が新しくなったらはたして良くなったのか、悪くなったのかことが分からないうちは手を出さないという、本来新製品に寄せられる期待とは逆 の”疑い”を持たれるようになってしまいました。 これまでの製品の悪い点を見直し、改良を施した”マイナーバ−ジョンアップ”なら大歓迎ですが、目新しくするためにフルモデルチェンジされたものは、はたして良くなった のか悪くなったのか分からず、また製品の品質を確認しなければなりません。 メーカーさんは目先の利益、それも問屋や店にばかり負担を強いていずれ無理が来ることが分かっていることばかり求めず、少しでも魚を飼う人が増え、堅牢で長く愛さ れる製品を目指していただきたいものです。なまじ焦って悪い新商品を出せば、せっかくのブランドやメーカー名に傷がついてしまいます。 目先の新しい機能も魅力ではありますが、まずは高い基本性能、耐久性が最優先ですので、どうか地味でいいので素晴らしい品質を維持して頂きたいと思います。 売上げを維持する方法として新製品を永久的に出しつづけなければならないという体制は、長続きするものではありません。煮詰めに煮詰めた製品を作り、その現行の製品 が長く愛されてよりよく売れる環境作りをすることこそ重要であると思います。 製品は、満を持して待望されるべき製品のみを送り出すべきであって、新しい製品を出すための必要性や名目、アイディアを無理やりに作り出すようなことは、不自然なこ とであり、結果として従来品より評価が落ちてしまうことも多分にあると思います。 売れるもの、ではなく 人の役に立つもの (追記) (すみません、大事な項目が抜けておりました。<(_ _)>) 友人や交友店のご店主が私の店を訪れた時、しばしばもらすのが、「一体、今どんなもの作ったら売れるんでしょうね・・・。」という事を言われます。皆、経営に苦労して必死 になって活路を見出そうとしています。 ただ、私がこの時に思いますのが、”売れるものを作る”という考え方ではなく、”人様の役に立つものを作る"という思考を持つべきであるということです。 とりあえず”売れるもの”というのは、見た目にも”売れそうなもの”です。実際”売れそうなもの”でなければなかなか最初は売れません。見た目においしそうなものでないと、実 際においしいものでもなかなか売れないのと同じ理屈なのですが、ただ、見た目によさそう(=宣伝的外見が派手)なだけで、実際は全然だめというものも多分にあります。 商品の相談を他の方にされ、意見を述べられることがあるのですが、一番まず簡単なのは「自分なら買いたいと思うか」ということを確認してみるということがあります。これは 、非常に単純で簡単なことなのですが、商売人は意外と見落とすようです。売りたいという意識ばかりが先立って、自分なら買うかと試しに想像をしてみたことが無いということ です。自分はその商品のすべてを知っています。その自分が見て、買いたいと思うならとりあえず大丈夫であると思います。あと、もうひとつの基準が、いわば先のこと以前の 試験なのですが、「もしこれを人からただで貰ったとしたら、嬉しいかどうか」という事です。同じ海水魚の趣味をもつ人に、商品の概要を伝えた上でよかったらこれを使ってみて くれと言ってみて聞いた人の大方が「ぜひ欲しいです!」と言われるものなら脈があります。同じ趣味でそれを使用できる環境をを持つ人に「無料でも要らない」と言われるよう な商品では、お金を貰って売るのはなかなか難しいものでしょう。 話がそれてしまいましたが、人の役に立つものを作りたいという純粋な精神が、やはり純粋な製品を作るのではないでしょうか。儲けはそのあとからついてくると言う考えをもち たいものです。これは商品化するときに結構、結果に出てきます。例えばあるシリーズものの製品でも、少しでも沢山買わせようというラインナップと、少しでも少ない数だけを使 用して済むように考えたラインナップは確かに違いが見えます。 そういう意味では、例えば最近発売になりましたテトラのテスター5in1マリンなどは本当にお得で、使う側の立場をよく汲んでくれた商品ではないかと思っております。 なにしろ1回のテストで5項目がわかるのですから、個々のテスターを買うよりはるかに安く、簡単です。 お客さんにも自信を持ってお得な品物であるとお勧めでき、いい製品を作ってくれたと感謝しています。製品開発はこのようにありたいと思います。 他人のアイディアを使用・参考する場合のモラルを考える 外部、他人、他者、また他社のアイディアや情報を商売に利用させてもらうことについてのモラルはその企業の品格を保つ上で大変重要であると思います。 現代では、法律に触れない限りなんでもやりたい放題な面もありますが、情報・アイディアの提供者、開発者に対してなんらかの敬意を払う姿勢が無いものは下品といわざる を得ないと思います。 当店の場合の考えといいますか、いわゆるコンプライアンスでは、交友店に対するモラルとして、まず他のお店が仕入れた良いものと同じ物を(紹介などがなく、無断で)真似 させてもらう場合、6ヶ月ルールを自店に課しています。すなわち、半年間は取り扱いを控えるというものです。状況によって入荷元を共有する場合などは、納品の順番など先に 取引していた相手を最優先とするよう、配慮します。 また、その他社独自の抜本的に新しいアイディアは基本的に無期限に真似をしないようにします。 ただ、極々自然な流れで広く採用されていくような技術については、1年間を目処に期間を置くということにしています。 例えば、観賞魚の世界ではLEDがもう何年も前に採用されました。LEDというものは今や照明として使用されるものであって、それが鑑賞魚の世界にも転用されることは ごく自然な流れです。ゆえに、それを観賞魚の水槽に使用したことは、確かに新しいアイディアではあるけれども根本的に新しい技術・奇抜で抜本的に新しいというものでは ないため、最初に採用された時から数年遅れて参入するという判断で、特に特定の会社からアイディアを盗んだということにはならないであろうという判断です。 このように、新製品を開発するときは、他社、他者の新しいアイディアを盗んだことになっていないか、採用しようとしている技術やアイディアが既出でないか、あるいは既成 ののものならいつ頃開発されたものか、ものによって最低でも半年〜1年程度の期間が空いているかなどを確認します。 他の製品を参考にするということとアイディアを盗むと いうことは、非常に微妙な違いがありますが、私は自分が相手の会社、開発者であったらどう思うかと置き換えて考えてみます。 広い視野、長い目で見ますと、業界全体で製品はお互いに切磋琢磨され、蓄積された技術は仮に特許や実用新案が取られていてもいずれ一般に共有されるものです。 その中でも、他人が開発したばかりの技術、アイディアを盗んで独占するようなことは避けていき、品格を保とうと思えばそれに叶った行動をとらなければならず、それがモラ ルを守ることにも繋がるのではないかと思います。 「そんなことはない、消費者はどこの会社がどこから盗んだ物であろうと、安くてよければそれで良いのだ」と言うのなら、確かに現実的にみればそういう面も多分にあります す。しかし、これは極論すれば消費者は”安ければ盗人の売るものでも買う”と捉えていることになり、お客さんを品性と品格の無いものと侮辱した捕らえ方であって、それこそ お客さんに対して敬意を持っているならそういう売り方はできないはずなのです。やはり、開発・販売には一貫したモラルとそのもとになる”信念”というものが必要でしょう。 当店が自社製品を作る理由 もともと当店は小売店であって、メーカーさんが供給する品物や生体を売るのが役割の業種です。 しかし、悲しいかな現状はそれではまともに食べていくことも出来ません。いわゆる量販の大きなお店だけが圧倒的に有利となり、小さな個人経営のお店では、特に通販 ではメーカーさんの販売価格の希望などをすべて受け入れ、守っていては実際とても経営はできないのです。 当方では昨年、ショッピングカートの採用にともなって、確かにメーカー品の売れ行きはかなり伸びましたが、それでも全体の売上げのせいぜい1〜2割未満、利益率 では5%程度という状態です。高級志向のお客様を対象にし、高額な製品を扱えば売上げは飛躍的に伸びるのかもしれませんが、当店がもっとも力を入れるローエンドユー ザーの養成という方針にはそぐわない面もあり、また、今や多くの御客さんが通販で注文される場合、たいがいのメーカー品はもっと大きなお店で購入され、我々個人店な どはその失礼な言い方ながら”おこぼれ”のお客様や、極々一部の特定の店のファンになって下さった方々に利用して頂いているというのが現状です。 そのような中で、”ここでしか買えない”という自社製品は生き残るための必須条件です。 本来は自社製品開発などせずに普通に海水魚屋でやっていけたらこれ以上気楽なことはありません。 実際、できるだけ新製品販売は避けたいものです。開発は楽しいことでもありますが、一介のしょうもない店にとって、開発の労力や資金、製品や材料の置き場所だけ でも苦労します。 私は毎年、後ろから迫ってくる不況からその都度逃げ切るため、不況が深刻になるペースにあわせて自社製品を増やしたり経営改善しています。誤解されても止むを得ま せんが、私は本当に自社製品によって他店様の利益まで独り占めし、過分な利益を得たいなどとは断じて思っておりません。むしろ、当方の製品によってそれに相当する 一般メーカー品が売れなくなることの方を恐れます。価格破壊においても、自由競争の名のもとに一部の大きなお店が自分でお客さんを独り占めし、他店がつぶされてい くのを意に介さないという姿勢が現状を作っているということを痛感しております。 自社製品を増やす場合は、他のメーカーの相当製品を一緒に取り扱いをするように心がけます。ですから、活性底面BOXとAZ-NO3、R.P.LEDとグラッシーレディオなど、 自社の製品がすべてにおいて勝っているというような表現を控え(実際にそうではないのですから)双方にそれぞれ良い点があるということを販売姿勢によって表明して、 店を維持するため止むを得なく自社のものも売るがメーカーさんのものもきちんと評価して扱う、メーカーさんが溜息をついて残念な思いをすることがない様に、事実に基づ いて公平に記述し、配慮はしているつもりです。真似事とはいえ、それが公共心に基づいた(小売店の)自社製品販売ではないかと思います。 最近では、全国規模のスーパーやホームセンターが、自社の力が増大していくに伴って自社製品を次々と作り、次第にメーカー品を置かなくしていく傾向もあるようです。 先日も、ホームセンターにCDラジカセを買いに行ったのですが、売り場にはそのホームセンターのブランドのものしか無く、店員さんに聞いたら以前は他社のもあったが、 最近は自社ブランドしか置かないようにしたということでした。 今まで、こういった販売店のブランドで、工具、パーツ、色々な配管部材や資材を購入してみました。こういった販売店ブランドのものは安価でとりあえずは確かに使え ます。が、概して一般メーカー品より品質や使い勝手、耐久性がよかったためしは一度もありません。やはり値段なりです。そういう安いものもあることは良いことだと思い ますが、やはりそれ以上の高品質のものを排除してしまう考え方には問題があると思います。また、高くても長持ちする、結果的にお客さんが長い目で見て得をするもの をお勧めするべきであるという観点とは、また違うものでしょう。 このような企業の姿勢が続けば、いずれ一部の強大な販売店や一部の企業だけが残って、小さくても良いものを作る会社や人がどんどんなくなってしまうのではないかと 危惧します。”自分の会社さえ、自分さえ良ければ良い。” この考えはやがて自分だけが太りながらその属する世界を縮小させ、やがては自分の首も締めるものです。 (付録) 下題 詐欺呼ばわり 先ほど少し触れましたが、当店に対する誹謗は昔から数多くありますが最近では当店をいよいよ思い切って詐欺呼ばわりしているお店(あるいは店員)があるそうです。 毎度ため息がでますが、一体当店や当方製品のどこを取り上げて”詐欺”というのか、そもそも詐欺という言葉の意味を知らないのではないかと思います。 改めまして詐欺(罪)とは、「人を欺いて財物を交付させたり、財産上不法の利益を得る(例えば無賃宿泊をする、無賃乗車するなど、本来有償で受ける待遇やサービスを不 法に受けること)行為、または他人にこれを得させる行為を内容とする犯罪のこと。刑法246条に規定されている。未遂も罰せられる(250条)」というものです。(WIKIペディア より)当店が行っている販売が、これのどれに該当するのか聞いてみたいものです。 また、これはつい先日ですが自社で独自の還元ろ過システムを開発、売られているお店が、当方の還元ろ過BOXを露骨に店先で悪口を言っていることをお客さんを通して教 えて頂きました。「あれは半年で崩壊するに決まっている」とか、色々なことをおっしゃっているそうです。半年とかいったいどこからその数字が出てくるのか、検討がつきません が、その方にはその方の主張があるのでしょう。 ただ、私は自身が還元ろ過関連の研究をもう12〜3年以上前からして来たこともあり、開発の苦労を知るだけに他の製品についても、効果や値段とは別に、一定の敬意 を持っています。値段や効率的な面はともかく、構造がしっかりしているとか、きっちりとした品物であるなど、他の製品を見習うべき点も多分にあります。ゆえに、私は理由なし に憶測に基づいた製品の批判や誹謗などは一度もしたことはありません。誹謗中傷論でも述べましたように、事実に基づいての批判や時には悪いものへの露骨なの攻撃的 行為が必要な場合もあると思いますが、そうでない場合は他の悪口を言うことは自分の製品がそれより劣っていることを内外に示すようなものであるからです。 そこにも、品格や、あるいは威厳というものが必要になると思います。 私達の友人であり先輩でもあるアクアシステムマリンさんは、もう20年くらい前から有名なデニボールを用いた元祖の還元ろ過器を作成・販売されていました。高価でした が品物はマリンオリジナルの本当にしっかりしたものでした。私が還元ろ過BOXを発売して後、 マリンさん「お・・おれ・・こんな”ハンダゴテ”(※=還元ろ過BOX)に負けたんやや〜〜くそ〜〜。」(※還元ろ過BOXの本体の穴はハンダゴテであけています。) 私 「ん〜な高いもん(マリン還元ろ過器)この不景気にそうそう売れるかいな!」 マリンさん「売れとった!!あんたのBOXのせいや! くそ〜。」 と冗談まじりのやりとりをしたことがありました。マリンさんが冗談でも負けたなどと言われたのは印象的でしたが、他の作成や店としての威厳、底力で圧倒的な自信があるか ら言えることなのだと思います。当たり前ですが、私はマリンさんに店として勝つ自信など全くありません。小手先のことではなく、”モノ”が違うからです。 (以上追記) 話を戻しまして、 当方の販売している製品は、十分とは言えないかもしれませんが、当方で研究、実験を一定の期間の研究を行い、データを取り、また少しでも問題やデメリットがあれば、 改善、またはその旨を公表して販売しているものです。法律上も違法になっていないか、大阪府の農林水産課の動物薬事関係部署、経済産業省に問い合わせたりして、 可能な限り確認をとってやっているつもりです。また、それらの所に当方のホームページを連絡し、違反している部分があれば直ちに指摘してくれるよう、願い出ております。 実は、今の一流メーカー品でも厳密に言えば動物薬事法違反の記述になっているものはあります。本来、添加材やエサは動物医薬品でない限り、生体に対する”効果”や、 生命維持に不可欠という意味の記述してはならないことになっています。当方もそれを農林水産課に問い合わせ、指導を受けたときすべての添加剤の記述を訂正しました。 ただ、現実にはそれほど厳しい指摘や摘発はなく、ごく良識の範囲内で事故が起きないものであれば見過ごされており、仮にそのような指摘があったとして、まず各所から の指摘・指導があり、それを聞かなければ次に勧告、それでも聞かなければ告発・提訴という順序があるそうです。 またインチキ商品がいつまでも売れるほど業界は甘くありませんし、これまで最初に手作りのフレームUの前身フレームTのさらに前身のフレーム101を始めて販売してから 約7年間、オリジナル品は何度も自分達の水槽で実験を重ね、複数の方に試用をお願いし、また使用された方から寄せられたクレームや問題点にも最大限対応をしてきた つもりです。 あるお店は「免責事項で使用に関して一切責任を取らないと書いてあるので無責任だ(から詐欺である)」といっているのだそうです。まず仮にそうだとしても、それは”無責任” であって、”詐欺”ではありません。昨今では、免責事項というものは商品になんら異常が無いのに言いがかりのクレームの詐欺トラブルを防ぐための便宜上のものであり、実 際にはこれまで種々の対応を行ってきております。昨今は目立ったトラブルは特に起きておりませんが、毎日の相談はもちろんのこと、以前、還元ろ過BOXと他のメーカーさん のバッファー材の相性問題が起きた場合は、当方だけが一方的に異常が発生した方々の海水交換用に人工海水や殺菌器具を無償で送ったりもしました。かなりな金額です。 それも、還元ろ過BOXを使用していて異常なく、バッファー材を追加した瞬間から水槽が異常になったという状況でです。 こんなことを”正式サポート”にしていたら、それこそこれを利用した詐欺がいくらおきるか分かりませんのであくまで個人的対応で行わなければなりません。 確かに、他の方々との著しい不公平になるため「当方の製品を使って死亡した」と主張される魚の弁償まではしたことはありません。また、そういった事故が起きないように 、販売前に徹底した実験を行うのも責任ですが、さすがに他の無限に近い製品との相性までは確認はできませんので、ごく一般的な飼育環境での試験です。 これらのような対応や考え方・販売方法で責任感が足らないのなら、確かに当方は無責任でしょう。 しかし、それを罵るお店は普段どのような対応をされているのか聞いてみたいものです。まして、他店で購入したものの相談にまで真剣に対応しているのでしょうか。 また、いま現行で販売されている製品で、例えば還元ろ過関連の品物だけでも、共通してあるはずの亜硝酸や硫化水素、また不特定多数の細菌を発生させる作用につい てきちんと公表して売られている品物がどれくらいあるでしょうか。 製品は、所詮人間のつくったものです。デメリットや注意点も存在するものは多くあります。 ちなみに、当方がこれまで被害を受けた場合、例えばコケ防止剤でサンゴが色抜けしたり、ヨウ素系の添加剤を規定量を入れたら当日中に魚が何度も全滅したなど、メーカ ー品を利用して被害を受けたことも何度もあり、メーカーにその旨を連絡し、直接指摘したこともありますが、一度たりとも保証はともかく、お詫びすらされたことはありません。 またこれらの製品は本当に最低限の使用試験さえしているのか、と疑問に思うことがよくあります。 近年では、当方の卸やお客様の双方で、ある一流メーカーの殺菌灯が1年程度の使用で内部の金属板がぼろぼろにサビ、生物が全滅するというようなものまでありました。 海水の中に、コーティングをしただけのステンレス板を直接使用する事に不安や懸念を唱える人は社内にいなかったのかと思います。(現在は改善されているそうです。) とかく、都合の悪いことは隠し、よいことだけを誇大宣伝し、自社のイメージアップを図る態度が常識化しているのが根本的な問題ではないかと思います。 そのようなことを重ねていけば徐々に信用を失うのは当然なことです。 宣伝論でも述べましたが、他者を誹謗せず、実相と実体を健全化することを互いに努力しましょう。 -------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------- 競争のモラル 今は自由競争の世界、市場原理主義が支配する世の中です。日本に蔓延している個人主義の上での市場原理主義は、販売の世界でも皆自分さえ儲かれば良いというモラ ルを無視した”競争”概念ばかりが広がりつつあるように思われ、そのためにはモラルを無視することもしばしばあります。 本来は、モラル、すなわち自分達が属する世界を恒久的に維持するためのルールを守り、自分達が走る道を守った上で競い合う、”競走”であるべきではないかと思います。 自由競争の中にもモラルと公共心が無いと業界を自ら潰してしまいます。 特に今はデフレです。ものが売れないために皆値下げ競争になります。当然お客さんは少しでも安いところで買おうとされます。この値下げ競争は、対抗する相手のお店が 潰れて消えるまで延々と行われます。とにかく他店に勝とうという意思ばかりが強く、どこまでも下げようとします。まさに首の締め合いです。 自由競争の名のもとに値下げ競争が激化し、定価などあって無いような状態になりました。メーカーは、頼むから値引きはこれくらいまでにしてくれという希望を我々に願うこと もあります。ある程度の販売利益がなければ多くのお店が扱うのをやめてしまうためです。 私はメーカーが希望する値段の範囲内で割引をしています。メーカーに直接聞いて、いくらまでで売って欲しいか確かめることもあります。しかし、メーカーの希望を無視してど こまでも値段を下げる店もあります。法律では、販売価格や割引限度を強制してはいけないことになっていますし、常識で考えてもそれは仕方がありません。 私は値段を決めるとき、大型量販店の価格を少し調べ、もっとも安いと思われる値段より少し高い値段にしておきます。特に、我々のような安売り組の通販店はそういう心が けをしておかなければ全体の値段がどこまでも崩れてしまいます。皆で最低限の利益が得られるように値段設定にも”全体のこと、全体の将来のことを考える”意識、ひとつの 公共心がなければ本当に首の締め合いで共倒れを待つばかりになります。 お客さんが値段が安くなるので喜ばれるのもつかの間、お店はどんどん姿を消し、大きな力をもつ店を残してついには買うところがなくなってしまいます。 ただ、少なくともこの世界ではいくら安いといってもお客さんへの観賞魚販売店としての対応やサポートもすべてきちんとカバーした上でのことであれば、私は文句をいう筋合 いはないと思います。 しかし現実には、価格破壊を行うお店の多くがいわゆる量販店であり、売りっぱなしであとは何もしない、なにか聞いても木で花をくくったような対応、酷いところでは相談を しても返事すらこないときもあるというようなお店もあるようです。(無論、そうでないお店もあると信じております。) ものを安くうるということは必ずしも悪いことではありませんが、目先でものを売るためだけの作業しかしないのでは、お客さんが困り、結局皆が困ります。しかし、安いからそ こで買う、相談は他の親切な店でするか、他人に聞くということになります。要するに、現在のそういった販売店は販売にともなう最低限の対応すら、他人に押付けた上での販 売を行っていることになります。 お客さんは賢いです。聞いても返事を返してこないところに相談はしません。しかし、安ければ買い物だけはします。このことが、悪い状態がいつまでも続く原因になっていま す。今はもう、相談ができるようなお店自体がどんどんと減ってきています。 価格破壊を行っていくお店は、間接的に小さな店をつぶしていっている訳です。仮にこれを競争の名のもとに仕方がないとするのであったとしても、当たり前のお客さんへの サポートをしないのであれば、それは利益だけを求める無責任販売といわれても仕方がありません。 当店も、一応は安い部類に入る店であることを自覚します。それもあって、当方で買い物をされた方が他所で聞かなければならないというような状況だけは起きないよう、HP やメールで対応をしています。昔、販売を止めてでもHPの作成を優先しましたのはそれもあります。 闇雲な値下げは、諸刃の剣です。無論、談合して高い値段をつけるなどということも良いことではありませんが、この業界の現状ではまずありえないでしょう。 卸業者を通る一般的な大メーカーの製品は、いまやもう流通と値段はむちゃくちゃです。我々が仕入れられる限界の安い価格より1割以上も安い価格で大手通販店などで売ら れていることも珍しくありません。中小の輸入メーカー等はこれを懸念し、販路の著しい不利を承知で各店へ平等な直卸を行っています。ただ、いずれにしても値段を破壊し尽 くしてしまう店に製品を流せば同じことになってしまいますので取引相手は重々選んで頂きたいと思います。 法律で縛れない、あるいは縛るべきでないことも多分にあり、それをバランスをとって全体が生き延びられる法則も、やはりモラルであり、それを守ることこそ品位、品格の元 ではないかと思います。 処分販売 私は一昨年、家のクリスマスの飾りのためにイルミネーションをホームセンターなどの処分販売でかなり安く買うことができました。自分の商売の後学のために、そういうと き売り場の店員さんなどに状況や売れ行きを聞くようにしていますが、やはり、あまり売れなかったそうです。安く買えた人は大喜びですが、お店は利益を出せません。 そして昨年、つい先日ですがここいらの周辺のお店は皆一昨年よりはるかに少ない数しか置かなくなりました。こちらが買いたいと思っても、もう無いのです。 以下は、今から数年前にあるお客様から頂いたメールを覚えている範囲で再現、補完したものです。 「先日、近所の何十年も続いた靴屋さんが完全閉店されるので処分販売をされていました。それを買いあさる客の様子を見て、いささか浅ましさを覚えました。誰も、この 店がもう明日から無くなる、歴史に幕を下ろすということより、自分が目先で安いものを買い取り合いに必死になっている様子を見て、情けない思いをしました。」 私もこれは全く同感です。 目先の安売りを喜んでいる場合では無いのです。世の中が崩れていっているということ、良心的で血の通った仕事をしてこられた方が成り立たなくなってきていることを肌 で感じ、それを少しでも止め、本当に誠実なお店や会社を支えてあげる方向に我々は努力しなければならないはずです。 相手も良くなり、自分も良くなるという基本 そもそも、今の多くの販売者に根本的に欠けている理念がこれだと思います。自分が売ったもので相手の役に立てたい、本当に相手のために販売してその対価として御代 を頂くという意識が本当にかけていると思います。自分がやっていることが本当にあいてのためになっているか、あるいは世の中に良い影響を出しているか、悪い影響を出し ているかを考えることこそ公共心です。これは商売でなくても、日常生活でも重要なことであると思いますし、またこれも、戦後の個人主義が台頭した結果でもあると思います。 この点、我々は多分に考えなければならないかなり微妙な点があります。サンゴが減っている時に、無秩序にどんどん死んでしまうような販売をしてしまうことはいけません。 本当に危機に瀕しているなら、取り扱い自体も考えるべきでしょう。そういう意味でも、地上から生体数を減らさないために十分にサポートしなければなりません。 また、お客さんの一人一人の”個”を意識しない口先だけの”お客様第一主義”を広言しながら、お客さんの集団を一つのモルモットか、なにかの作用を加えればそれなり に反応を出す化学物質のようにとらえ、いかにそれをうまく反応させて利益を得るかということばかりに終始し、それで益を得たものが勝者であるという、そういう意識が蔓延 しつつあるように思います。そのような心無い販売戦略ばかりを重視すると、おかしくなってくるのは当然と思います。 商売する相手はそれぞれに人格があり、”個”のある人々です。何も一人一人に細かな対応を必ずしもするべきであるという意味ではなく(もちろんそうできれば好ましいで すが)、「相手も人である」「個々の相手を益した結果、それぞれから対価を頂いている」という意識を取り戻さなければならないでしょう。 私の場合はだからこそ深い話をしたり、年に1回くらいはケンカや口論にもなりえます。しかし、それは相手を人間扱いしているからなのです。 これにつきましては、最終章の信用論で詳しく考えたいと思います。 プロ意識の勘違い 客の無知を笑うの愚 私が色々な専門店にものを相談して買いに行くとき、面白い反応を垣間見ることがあります。色々なことを聞きますと、少し年季の入った店員さんや店主さんがいかにも 「(こんなことも知らんのか)」「(またアホ客が来た)」といわんばかりの応対をすることがあります。経験のあられる方もあるのではないかと思います。 私はお酒の店やパソコンショップで、このような態度を取る店員をしばしばみかけました。 お店側はプロです。知っていて当たり前であって、それを知らない人にわかるように教えるのがプロの役目であり仕事です。そういう人は、自分が知っているという時点でプ ロであると勘違いしているのです。自分にしても、専門外のことは知らないはずです。 この点ですが、現在海水魚の場合は、なまじの量販店よりお客さんの方がよく知っている場合も多く、お客さんが色々と親切に店におしえてくれる場合や、逆に店の無知を 笑いに来るような逆のパターンもあるようです。お互い、相手のためを思って指導してあげるのはよいことですが、知識をひけらかして他人をあざけるのは醜いことです。 販売促進のための努力 小売店が少しでも多く売りたいために、例えば”今月の目標 売上げ○百万円!”と目標を決めたとき、結果的にやっていることとは何でしょうか。 店に来た人に販売を促進する、少しでも品物を勧めて買ってもらう。悪く言えば押し売り的販売で売上げを伸ばすということになります。お客さんが自然に買ってくれる以上に 買わせたい、というこのような販売は、仮に一時売上げを伸ばすことに繋がっても、”買わされた”という印象をもたれたらそのうち客足が遠のいていくことは自然な結果です。 普通は”買わせよう”という意思が強いお店に行きたいとは思わないものです。 自分が客として店を訪れたときにどうされるのが嫌か、どうしたら次にまた買いに来たいと思 うか、それを想像すれば対応の仕方は決まってくると思うのですが、これが長年にわたって変わらないところは変わらないのが不思議です。 売り込まれるくらいなら、ほっといてくれる無愛想な店の方がまだ行きやすいと思います。 なぜこうなってしまうのか、やはりこれも結局は目先の(今月の)利益・売上げ”だけを追求してしまう意識の結果であり、 その一つの裏返しとして、新しいことやお店を始めて利益がでなければすぐに止めてしまう傾向があります。 販売を伸ばしたいときは、特に我々のような小さな小売店では、無理に口八丁、手八丁で売ろうとするのではなく、販売形式や形態、商品そのものを改善、改革することで、 結果的に売上げを自然に伸ばすべきではないかと思います。そこに、事実だけを知らせる誠実な宣伝が加わえ、さらに大事なことはこれを長期にわたって地道に継続すること です。商売は、長く続いていること自体が信用、そして安定までにはまず3年、これは昔から言われる基本なのですが、最近ではやってみてすぐに利益がでなければすぐに止 めてしまうことが多いように思います。これも、結局根元にある意識が同じで、目先に利益がないことに努力をしようという意識に欠けるためです。 ”のれんのもと入れ”という概念 古い言い回しで、”暖簾(のれん)のもと※入れ”(もと入れのもとは”基”のようです。) という言葉があります。これは、暖簾、すなわち自分の店に誇りを持っている商人さんがその信用を得る、またはそのための行為などを差すのではないかと思います。 私は桂米朝師匠の大ファンで、その中でもう覚えるほど聞いている”千両みかん”という噺があり、この中で明治時代の大阪の天満にあったとされるみかん専門問屋さんの セリフにこの言葉が出てきます。 (以下引用)「・・毎年毎年、腐るのを承知でみかんを囲い(取り置く)ます。大阪で唯一のみかん問屋という看板を上げていますと、いつ来られても”無い”と言う訳にはいきま せん。全部腐ってしもたら今年も暖簾の基入れをしたと思ってあきらめます。・・・・・」という部分があります。 当時は今のように冷凍や保存技術も無かったため、みかんは夏場にはとても手に入らないものでした。しかし、万一欲しいというお客さんの要望に応えるため、また自身が みかんの商売では絶対に他に譲らないという誇りが、このような行為となり、無駄を出して損を重ねながらも結果的に大きな信用を築いていったのではないかと思います。 この”暖簾のもと入れをする”という概念が最近は本当に薄くなったと思うのです。損なことはとにかくしたくないという気持ちばかりが強 すぎ、結果、損をしないかわりに信用もそれなりになっているということは実際に多いと思います。 この部分からは、単純に聞いただけでも、時期はずれや滅多に要らないものでもほんの少しは在庫しておくことが、お客さんにとってどれだけありがたいと思ってもらえるかと いうことを学ぶことができます。実際、私が家電量販店に印刷用のラベルシートを買いに行っても、欲しい種類がないことが多いです。しかし、他の製品で同じものをこれでも かというほど大量にドサっとおいてあるのを見て「このスペースをちょっと分けて(欲しいのを)1個だけでも置いていてくれたら助かるのに・・。」と思うことがよくあります。 私はこのことから学び、例えばパワーヘッドの細かい交換パーツなども、出来るだけ普段から在庫するようにしました。もともと小さいものですのでスペースはほとんど取りま せん。実際、売れる数は少ないですが、突然に買われる方も居られます。1個売れたらすぐに用品の発注書に記載して次回の入荷時に必ず補充します。 やはりこれも、購入者の立場に立って想像し、安価なものでも必要になるものはサポートの意味を込めてきちんと在庫しておくことが、お客さんを本当に大事にしているかど うかを図られる一つの規準になります。 店と客・個人的関係のケジメ もうひとつ、上記の噺には我々商売人が留意すべき非常に面白い部分があります。 この夏に1つだけ無事に残ったみかんを、問屋さんはやってきたお客さん(大阪船場の大家の番頭さんで、若旦那がみかんがないと死ぬということで、必死の思いでみかん を探しにきた)に、事情を聞いた問屋のご主人は最初、それほどみかんを命がけで欲してくださったということで、”さしあげる”と言いました。しかし番頭さんは、それでもは あまりに申し訳ないので、高いのは承知でぜひ売ってほしいと言いました。押し問答の末、以下のようなことになりました。 問屋「わかりました。それならお値段を言わせて頂きます。そりゃこちらも商いした方がよろしいです。ではこれひとつ、千両頂きます。」 番頭「千両!?そな・・あんまりや・・そんな人の足元見て・・・。」 問屋「おかしな事を言われる。なんちゅうことを仰る。私は、”さしあげる”と申しました。・・・・(中略・先ほどの上の引用文章)しかし、一つでも残ったら、これは千箱の中の たった一箱、一箱の中のたった一粒。買い手がついた以上商人冥利一文も損はようしません。全部の値段を掛けさせていただきます。あげるのなら”ただ”で差し上げます ・・。買うといわれた以上は、損はようしまへん。・・(後略)・・」 こんなことが実際にあるわけは無いということを言われる方がおられましたが、この考え方自体は私にはよく理解できます。 実際、私は製品を人にただでさしあげることがよくあります。売る以上は、中途半端な値段で売れば利益が出ないだけでなくほかのお客さんへの面目が立ちません。「なんで 自分に¥2000で売ったのに、あの人には¥1000で売るのだといわれたとき、はっきりした理由があればまだ良いですが、相手のねぎりに負けて値引いたのでは、何もい わずに元の値段で高く買ってくれたお客さんに不公平そのものになります。しかし、個人が個人に理由のついた贈り物としてそれそのものを差し上げることは、商売とは関係 ありません。 友人が私に会いに来たとき、魚を飼っている人の場合、直接事務所からものを買いたいと頼まれることがあります。 しかし通販専門店を名乗り、一般のお客さんに直接取引きをお断りしている以上、よほど特別な事情がない限りここで売るわけにはいきません。 他のお客さんへの信用に関わります。 そこで私は「ただで受け取ってくれるなら私からの個人的なプレゼントとしてあげます。でもどうしてもお金を払いたいのなら、ネットで改めて注文してください。あるいは、うち の自社製品で、リーフパワーソルト以外のものを注文してください。それで採算は取れます。^^」といいます。 これが理解してもらえない人は、友人ではないので以後家には招待しないという事にします。 このようなケジメはしっかり押さえておく必要があると思います。「一般にバレなければ良い」という考えにはどうしても漬かれません。 -------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------- 慢性化した不信用の回復 販売業に関わっておられる方は、同じ事を感じられているかもしれませんが一般の購入者、消費者の方々が自分達を一次元的には信用をしていないと思うことが最近は 多くなりました。これは、今までの経緯、販売者の態度や行為を通してみれば仕方がない面が確かにあります。 あるいは、自分自身が信頼、信用できない人は他人も同様であると認識します。所詮人間は皆自分中心、利己主義で生きており、美辞麗句は利益のため、それを隠すため のうわべだけのもの、それが人間の本性本質であると本気で思っている人にとっては、誰も信用ができません。 私も、お客さんからまず半信半疑で信頼されていないと思うことはよくあります。 例えば、私は観賞魚を販売しておりますが、餌付いていない(餌を与えても食べない)魚を、事前に告げずに送ったことなどは開店初期のまだ右も左もわからなかった時以外 では記憶にありません。普段お送りしている魚は、こちらではよく食べており、お届け先に到着してすぐに食べだすものが半分以上ですが、さすがに到着の初日は食べないこ ともあります。しかし、到着してすぐに食べないようなものなら「エサを食べませんがそちらでは何を食べてましたか」というようなメールを即送られる方も過去には時々ありまし た。この文面の裏側には「どうせ餌付いていない魚を送ったのだろう」という、最初からこちらの言うことなど信用されていない意識が感じられることもよくありました。 通販の場合、魚が餌付づかなかったり、イソギンチャクやサンゴが状態が悪いと死ぬまで毎日のように「今日もたべない、調子が悪い・・」と状態報告をされ、とうとう死んでし まうと「こういう場合の対応はどうなるのですか?」などと言われます。すなわちお金を返せと言われているわけです。こういったケースで今まで幾度と無く返金を行いました。 店先で買った生体ならまずこういうことにはならないと思いますが、通販に対する不信感と、逆にお客が品物を事前に見ていないというむしろ”強さ”がこのような要求を可能 にするのだと思います。 このような状況になるくらいなら、最初から送らずこちらで死なせた方がはるかにましです。それゆえ、餌付いていない魚や不調な生体を送るくらいなら発送を止めるというの がこちらの方針ですので、わかっていて悪いものを送るなどということはありえないのですが、販売者に対して蔓延する不信感の中で仕事をするというのは、なかなかにつらい ことです。 話がそれてしまいました。詳細は後程論じたいと思いますが、まず信用できる人とは、その人のことが信じられる、信じるに足る人であるということであります。 商売人がお客様からもっとも得なければならないことのひとつです。 信用できる人・信頼できる人は、まず誠実であり、自らの利益のためにうそや誇張をせず、相手を思いやり、相手の立場を常に考える人です。 商売人で言えば、利益が最終目的ではなく、相手を利することであり、その対価として御代を頂くということをしっかりと認識できている人です。 ただしこれは、最終的に自分の利益に結びつくということを意識してはいけないということではありません。でなければ、商売はできません。 先の宣伝論のイメージアップについての内容とも似通っていますが、お客様の信用を得られるような行為を考え、どのように行動すれば、相手の信用を得られるのか、それを 常に意識して仕事をすることは、非常に重要なことです。 しかし本当は、人の信用を得るために行動するのではなく、自然なる誠実な行為の結果、自然に得られる信用が本物の信用です。 本来は信用や信頼とは、それを得るための謀(はかりごと)なき正直で誠実な人に対してもたれることであって、それを目的に行動して得た信用は、少し違うはずです。 他人から信用を得るためには、そのための行動をするべきではないという一見矛盾しているようにも思える理屈ですが、信用を得たいがためだけに行動するという意識は、本 来は真の誠実さとは少し違うものです。しかし、さしあたり形から入って努力し、だんだんと本物になっていく”嘘から出た誠”になる場合もあると思います。行為は人を作り、変 えていきますのでいつのまにか心そのものに変わっていることもあります。 いわば、信用を得るために行動して得られた信用は人造の信用、後者は天然の信用とでも言うべきでしょうか。 必ずしもどちらかだけという場合ではないでしょう。実際、私も「こうすれば信用をえられるだろうな」と意識しながら行動している場合はたしかにあります。 双方、似たようなものと人は思うかもしれません。心がまだしっかりとさだまっていなくても、その方向に向けてまずは信用をえるための行動ができていればそれだけでも立派 な事だと思います。 本章では、蔓延してしまった販売者に対する不信感を払拭し、信用を回復するにはどのようにしていくべきなのか、考えていきたいと思います。 商売人の虚報癖 昔からこういう傾向はあったのかもしれませんが、販売意欲の強い商売人が誇張、誇大宣伝だけならともかく、店先などでも平気で小さな嘘をつくことがあります。 ただ、昨今の一般的な大きなお店、家電量販店や多くチェーン店など販売店や販売員ではあまり見られません。むしろ、かえって個人の店や販売ノルマを課せられている店 員さんなどに多いです。なんとしてでも買わせようという販売意欲の強い販売者に時々見られます。 「黒を白といえば売れる」あるいは、販売に不利になる事実をいわなければ売れるとなれば、だんだんとそれが当たり前になり、いつのまにか売るためなら何でもいえ るようになり、それで一時あがる販売量を販売力と思ってしまうのかもしれませんが、言うまでもなくこのようなことは将来の信用を損なう大変な愚行です。 私の場合も、過去に経験があります。昔はお店のいうことを信じきっていましたから少し状態の悪そうな生体、今なら間違っても売らない、買わないような生体でも、お店にき くと、ほぼ間違いなく返ってきた返事が「たぶん大丈夫だと思います。」という返事です。これはまずダメだと思う必要があります。 当時はこの言葉にのって、半分腐食しかけているサンゴや、やせきった魚、そしてそんなわけが無いのに小さなフィルター1個で700L以上も処理ができるといわれて購入 したり、普通の小型ヤッコの幼魚をもしかたらゴールデンエンゼルの幼魚か掛け合わせかもしれないといわれ、購入するなど色々なことがありました。 店先で、この魚を自分の水槽に入れても大丈夫かと言われ「多分だいじょうぶだと思いますよ」といえば確かに売れます。 実際、詳しく水槽の状況を聞いたらたぶん大丈夫などと言えることの方が少ないです。 また、ある生体業者では電話で私がニシキヤッコや、一般のチョウチョウウオで少し餌付けが微妙な種類が餌付いているかと聞くと、ほとんど必ず「食べている、食べ 初めている」と答えます。しかし、入荷のち、食べた試しがありません。輸送することでごまかしが効くと思っているのだと思いますが、普段餌付いている魚を送り、その反応 を知っているこちらは相手が嘘をついているかどうか、しばらく取引すればすぐに分かります。 嘘はばれなければ嘘ではないと本気で信じている人が増えたのは確かだと思いますが、嘘はやがてばれるしかなく、真実より強いものはありません。 あくまで相手のために、相手を無意味に怒らせず、傷つけないための方便として嘘を用いなければならない場合は確かにありますが、目先の利益のために不誠実な小細工 を用いるのは誠に愚かしい限りであり、厳禁としなければなりません。 決して、何でも情報公開すればよいというものではないと思います。企業秘密はあえて伏せておかなければ、他人に盗用され自身が経営を維持できないこともありますし、 自店を守ることを悪いと言われたら経営はできません。 また例えば私のところでは、死着記録まで公開しておりますが、本来はあんなことまでする必要は無いと思います。 しかし、商売人に対して蔓延している漠然とした不信を、微力ながら払拭したいという願いもこめて、あのようなことを一時的にしております次第です。 誤りを隠さない態度 信用は何もせずにできがるものではありません。仮に私の店に多少なりとも信用があるとすれば、その理由で考えられることは、まず種々の相談に一応真剣に対応し、色 々な記事を作成、機関紙などをつくり、いくらかは寄付活動も行い、安価で効果の高い自社製品なども開発しということがあるとおもいます。 なにかをしたものと、しなかったもので結果に差ができるのは物理的に当たり前の事実です。 ただ、それよりもっと大事なことはトラブルや間違いの際の対処だったのではないかと思います。 私はこれまで、自社製品はもちろんメーカー品でも悪いもの、間違った情報の元で販売をしたものには、自分が分かった時点でそれぞれに謝罪し、返品やお詫びの対応を行 ってきました。具体的には対象の商品を買ってくださった方の過去の発送記録を一枚づつ調べ、一人づつ手紙やメールを出して事情を説明し、お詫び、返金などの処置を行い ました。このようなことをせずにすめば幸いですが商売を10年もしていますと、このようなことをしなければならない事に必ず遭遇します。 しかしもし、適当にごまかしていれば、あるいは何も言わなければ何もしなくて済むであろうこともありました。 現に私の知る限り、よほど公に知られない限り一般ではごまかしている場合がほとんどです。 ですがここで本当にお客さんに対して誠意をもっているかどうかが分かるのだと思います。普段、丁寧な言葉遣いで猫なで声で対応する人でも、こういうことをきちんとする人 は、最近は本当に少なくなりました。 メーカー等でもそうです。製品開発論でも述べましたが、商品に欠陥があっても放置し、どうしようもない悪い状況になったらいつのまにか商品が消えているか記述だけ訂正さ れていて、すでに買ったお客さんへの対応や誠意など全く無い場合が多いです。すくなくとも、観賞魚業界で私が遭遇した欠陥品についてはそのような対応だけでした。 そういうことを続けていて信用を得られると思っている事が大きな間違いでありますが、さらに今は信用があるものをやっかみ、間違いを是正するものを逆恨みさえするという有 様です。信用を得るためには、信用できる行動を取らなければならないということは当たり前のことです。 みな、逆の立場で自分が購入者なら怒るはずです。そして、きちんと対応するのが当たり前だと要求するはずです。 この当たり前のことを、自分が販売者の立場のときに当たり前にできるような人間にならなければなりません。 もはや、メディアに紹介されることは信用にならず 有名なもの、メディアに取り上げられるものは信用できるという傾向が一般にはあります。しかし宣伝論で述べましたとおり、知名度は上がり、販促効果はあってもそれは 真の信用にはなりえません。逆に、体制が整っていない、誠実な商売をしていないのに一時客を呼べば、寿命を縮めるだけの結果になります。 メディアに掲載されることはそれだけの信用があるということが前提?ですが、そもそも雑誌やメディア自体が著しく信用を失っています。今観賞魚の雑誌でもメーカーや 店の広告料を払っているところの記事しかかかないものが増えたということを、少し業界に通じている人からみな同じことを聞きます。 彼等が記事を書く目的が、そもそも消費者に良い情報を提供したり、業界のモラルを向上させるなどという本来メディアの果たすべき役割など、二の次、三の次になり、 とうの昔に忘れてしまっているのです。そのような雑誌に取り上げられて喜んでいるのはどうなのだろうか、まして広告料を払ってまで載せようとする神経がわかりませんが、 今までの惰性での付き合いや、雑誌に載るのはとにかく宣伝になり、有名になるという一次元的な喜びもあるのでしょう。しかし、いい加減に貴重な費用を、将来を損なう 三流メディアにみつぐのは止めたほうが良いと思います。 実際、この狭い観賞魚の世界で観賞魚雑誌に複数回取り上げられたお店でももう亡くなってしまったお店がたくさんあります。今この時点でも、私の近いところにあるかつ ては関西最大規模であったお店のひとつが売却されようとしています。このお店も、今まで何度となく雑誌に載ったお店です。 お店にとって、雑誌に掲載されることはひとつの信用やステータスのようでした。実際、雑誌などに載ったお店は一時は宣伝効果でお客さんが多くなります。 しかし、当店のように一度足りとも業界雑誌に掲載されたことが無い店でもなんとか生き延び、もう10年目です。逆に、派手に掲載されたお店でも今もうすでに無いお店もあり ます。こちら関西では、10年くらい前の雑誌を開いて、広告掲載されているお店のうち残っているお店の方が少ないのではと思うくらいです。 私のところは約9年間の間に、毎日新聞、アエラ、読売のネット新聞、マリンスクエアの際に、読売系のケーブルテレビの地域のニュース、掲載にはなりませんでしたがサン ケイリビングさんなどに取材をうけたことがあります。しかし、とうとうこの間、業界の雑誌には一度も取材もなにもありませんでした。あるいは、活性底面BOXなどいくら効果が あって人気の製品でも完全に黙殺です。 ちなみに知り合いのお店さんは、ほとんどが雑誌に掲載されたことがあります。 これが何を意味するのか、ご理解いただけますかと思います。 現在のメディアの中には、読者や消費者に真実や、重要な情報、議論の余地を与えるのではなく、自らの都合の良い方向へ大衆を扇動し、それによって利益を生むことし か考えていない(あるいは結果的にしていない)ものも多いということです。いわば、利益と広告とそのためのプロパガンダに堕しているといえましょう。 大新聞社にしてその傾向があるのです。雑誌類がそれに準じて出版危機になるのは当然です。 経営や信用を得る中で、メディアに紹介されることは喜ばしいことではあります。しかし掲載されたいがために善悪の判断を怠り、悪と付き合い、悪に染まることが無いよ うにしたいものです。本当の悪は、見るからに悪ではなく、また自分が悪と言う自覚もないものです。むしろ実に巧妙に、たいがいが笑顔で近づいてくるということを知らなく てはなりません。 とにかく、メディアに支持される前に、個々のお客さんに真に支持されるお店になることが先決でしょう。 誠実を装う愚かさ 昨今は表面上だけ誠実を装って信用を得ようとし、心の中では人に見せられぬ程の卑劣なことを考えているような人が増えました。仕事上では、そんなことは普通になって いるようにも思います。 如何に表面上だけ誠実さを装っても、一定の期間をその人と付き合い、その行動や振る舞いを統計して見れば結局本性がわかってしまいます。 最近は、自分に利益のある人のだけ擦り寄ってくる人が増えました。それらの人々は、いかにも相手に協力する誠実さを装って近寄ってきます。 行動はその人の人間性を表すものですから、隠すことは物理的に不可能です。もし行動も誠実なら、その方は誠実と言う以外ありません。 注意してみてみますと、何かを呼びかけたとき、自分の利益のあるときだけ近づいてくるがそうでないときは適当な理由をつけて断るという反応が一貫している人があります。 最初は分からずとも、何度か騙されてやがてわかります。こちらもそういう見方をするようになります。ですから、特に長いお付き合いの商売や友人関係で、誠実さや思いやり を見た目だけ装ったところで無意味であり、むしろその化けの皮がはがれたら、一気に信用を失うか、あるいは”それなり”の見方、付き合い方をされるようになります。 自分の実相以上に人に自分をよく見せようということは、最近の若い人が異性を口説くテクニックなどでよくみられますが、まさに現代の一時的な効果だけの”一発屋”であ り、前述の宣伝論と同じ理屈で最終的に必ず行き詰まるものです。 下手にありもしない善意を装うくらいなら、素直に「欲しい、下さい」と頼む方がはるかに誠実です。 指摘に対する感謝と態度 お客さんや周りの人から製品へのご意見や、色々な指摘をうける場合があります。あるいはなにか落ち度をみつければ、ここぞとばかりに居丈高に指摘する方もあります。 あるいは、ふと気付いたことをポロリと言われることがあります。こういった周りからの意見は、将来の災いを回避するために非常に重要な天の声です。 最近の傾向として、大きなお店や会社に対して個々の客からそういった指摘があった場合、とりあえずの丁寧な返答はあっても、なかなか商品に反映される場合ばかりでは なく、事故が起きてから初めて対応する状態をしばしば見かけます。そういった意見を伝えた際、窓口に立っている人は常識的に丁寧な対応だけはされることもありますが、 組織として改善はされない場合も多いです。表面上の対応、あるいは応対は丁寧、いわゆる大人の対応でも、改善がされないなら意味はありません。 窓口の人は指摘を受けても所詮自分のせいではないので、謝るのも気楽ということがあるのかもしれません。しかし、真剣に受け止めていない分、あるいは現場にいる 人が直接言われたわけでもないため、改善力も弱くなるのでしょう。しかし、積極的に改善の意思を持つ企業は本当に目に見えて改善されることもあります。 たとえばヤフーオークションなど、出品してみるたびにシステムが少しづつ改善されています。 我々のような零細企業や個人の店の場合、店への批判や指摘は即自分自身へのそれと同じです。ですから、真剣に受けて止めている反面、それを素直に認められないとい う場合も多いのかもしれません。私は、こちらに落ち度や改善点があれば、よくお礼とお詫びをすることを心がけ、ご指摘いただいた方にはお礼をお送りする場合もあります。 大事故に繋がる恐ろしさを考えれば、容易いことです。 間違いを犯したら隠さずにすぐに謝って、出来る限りの対処を行えばまともな人はそれ以上責めませんし、責める理由も無く、信用も別に落ちません。またそういう態度で 行動をしていれば、取り返しのつかないような大失敗は滅多にしないものです。大事故も、そうなる直前に多くが警告や予兆のようなものがあり、それをことごとく無視し続け た結果であることが非常に多くあります。このような事故はむしろ人災の要素が強く、起こるべくして起こったといえるものでしょう。 私も今まで、何度お客さんや、友人にあり難い指摘を受け、訂正やお詫びをしたかわかりません。自社製品など作っておりますと、いくら慎重にしているつもりでも、至らぬ 点が随時発生し、指摘をされます。 この指摘をすぐに反映し、訂正し、改善に用いれば、やがて製品が煮詰まり、欠点が無くなって来ます。 それを、隠そうとして変な言い訳をつけたりすると益々見苦しくなるだけでなく、いつか大事故を引き起こします。人の指摘は、仮にそれが悪意に端を発するものでも、ぜひ 自分のために受け止め、役立て、相手に礼を言うくらいの度量を持ちたいものです。実際、私のところには、あげつらいによる指摘もよくありましたが、修整すべきことは修整 し、商品の問題点や注意点は余さず掲載しています。結果、以後の問題は無く済んでおり、またそのような態度を何年も継続してきた結果、信用に結びついている点もあり ますでしょう。 たとえば今販売している添加剤について、友人から「これ、薬事法大丈夫?」とひとこと言われた時から、詳細に調べ、実際に大阪府の農林水産課動物薬事によく指導を 受け、記述の訂正を行ないました。 人の至らぬ点を指摘をすることは簡単ですが、逆に自分が指摘されたとき、それをきちんと認めて修整できるかどうかで道が決まってきます。昨今は自尊心と無謬性が強く 、人を攻撃して己の優位を示したいという、寂しい心の持ち主が増えました。我々はそのような人からの指摘でもありがたい指摘として改善の糧とし、また一段上にのぼるこ とが出来ますが、それらの人はその心を変えない限り永久にその穴倉の中です。当たり前ですが、そのような性格の人が、他人から好かれる訳はありません。 今の時代は、人を責める人、ひとたび人の落ち度を見つけたら鬼の首でもとったかのように居丈高に人を責める人も多いです。店などをやっておりますと、そういう態度を 取る人には時々出くわします。自分の立場が強いという場所では本性が出ます。 そういう態度を取る人は、自分が指摘されたときはまず素直に訂正するということはありません。自分は間違わない”無謬の人”となり、他人に頭を下げ、兜を脱ぐことがで きない人です。人は間違いを犯さないことなど有得ませんので、この生き方にはかならず無理が出てきます。 逆に、仮に相手が悪意(といっても、単に自分の優位を示したいという程度のささやかなものですが)がある指摘でも、それを誠実に受け止めて改善する能力をもってさえ いれば、逆にそういう時代にはどんどん、磨かれていくことでしょう。 企業家や経営者にとって重要なことは、その場その場に出会った相手を表面上で打ち負かして”勝つ”ことではありません。自分を正しい方向へ軌道修正しながら、堅実な 成長をさせることで最終的に信用を得、安定した経営を得ることこそ勝利です。 我々は、役者さんのように相手の心に突き刺さる決めゼリフで商売をしているわけではないのです。 善悪の判断と目先の利益 容易にできる改善を積極的にするのは当然ですが、昨今は将来を考えれば絶対に改善するべきことでも、目先で利益を損なうことは本当にしない傾向があります。 そういう姿勢を続けてきた結果が今まさに出ているというのに、まだ改善せず、状況の悪さを世の中や他人のせいにしています。愚かしい限りです。 先ほど、ヤフーオークションが日々改善されているということを例に上げましたが、かたや、オークション規定に違反している、それも大幅に何重にも違反し、もはやサギといわ れても過言ではないものでも、多くが野放し状態です。オークションのガイドラインは有名無実な部分が多分にあります。結果、多くの方が被害にあいます。 取り締まる方法はいくつもあります。オークションをされている方ならおわかりかと思いますが、個人がID(オークション上ので名前のようなもの)をいくつでももつ事ができるた め、別人を装ってオークションを荒らしたり、嫌がらせをすることがいくらでもできます。必死になって新しいIDを作って人のオークションを荒らしまわっている哀れな愚か者もおり ます。過去、問題を起こしたものでも何回でもIDを所得できます。 これらのことは、改善し、おかしな者を規制しようと思えば簡単にできるはずのことです。しかし、ほとんどされません。 改善は”目先の利益”を損ないます。ただ、そういった規制を行なわない結果、”オークションは、サギ師が跋扈する危険な場でもある”というイメージは確実に定着しました。 目先の利益を損ないたくないため、ガン細胞の切除を怠った結果です。 自分に今現時点で利益をもたらせているので、悪いものを切らないという態度はもう色々な商売に染み付いています。”切れない”ならまだしも、自ら”切らない”のです。 そのようなことを続けていれば、その運営自身がやがて腐食し、信用を失い、本末転倒になるということを知らなければなりません。 本当に勇気をもって、目先の利益にとらわれず、大げさにいえば100年の計をもって善悪の判断、英断をしなくてはなりません。「このものの考えかたなら、100年後でも通用 する、あるいは100年前でも通用していた」という磨かれた、真実の普遍的な正しさを持とうとする信念をもつべきです。そしてそれは意外にも、ごく素朴で単純なものです。 屈折した猜疑心 最近は商売人や販売者を疑う余り、販売者の誠実さの存在を逆に許さない、存在を認めないという、なかば屈折した感情をもつひとさえ稀にあらわれてきました。 販売者が誠実である訳はない、言葉はあくまで美辞麗句で必ず裏があり、利益だけを求めているというレッテル張りを頭の中で無条件でしてしまった人々です。 確かに、現在の販売者やメーカーの主張や情報を鵜呑みにするわけのはよくありません。大新聞でさえ、産経新聞以外は左翼に偏っている状態です。 ただ、そのような人たちの考えどおりなら、この世に信じられる販売者は一切無く、善人は存在しないことになります。しかし、誠実に仕事や商売をしている人、他者のために 奉仕につくされた人も沢山おられます。 また、他者の誠実さの存在を最初から否定する人は、販売者の良心的な振る舞いや誠実な行為をことさら否定してかかるという習性さえもつようになります。 私などはよくその的になり、商品にかなり詳細(普通はありえないような)な説明をつけているにもかかわらず、どこかに漬け込める落ち度はないかと病的なあげつらいをする 人もまれにありました。 質問メールなどを送ってくる方が、普通では 「還元ろ過BOXを使用すると、スキマーの泡がでなくなってしまったのですが、どうしたら改善できるでしょうか、もしわかりましたらお教えねがいます。」 となるであろう質問が、 「還元ろ過BOXを使うとスキマーが泡立たなくなることがどこにも記述がありませんが、どうお考えですか?」 というものになります。もはや相談ではなく、こちらの落ち度を責めることを目的にしている人です。 (ちなみに、上記の注意点はベルリン式との併用問題とあわせて何年も前からホームページに掲載しております。また、ベルリン以外では時と供に自然に回復します。 ただ当時、スキマーだけについて専門的にかいている解説がなかった事をついたものだったのかと思います。) しかし一商品について、ましてあの程度の単純な商品にあれだけ詳しく書いてある観賞魚用品を私は他にみたことがありません。商品の欠点を指摘するなら他に指摘 されるべきものがいくらでもあると思いますが、誠実を目指すものほどその誠実性を否定したいという意思の例が、まさにこの通りなわけです。 私のようにたかが魚屋、たかが小売店、たかが卑しい商売人と、自分よりも目下と意識しているものが偉そうなことを言い、情報を公開して誠実らしきことを喚いていると いうことが、かえってそういう人々の自尊心を逆なでし、許せないのかもしれません。 私は自分が過ちや間違いの多い人間であることはよく知っております。ゆえに過失は素直に謝りますし、対応も改善も行い、他者の過ちの追求は不要な限り避けます。 それが結果的に信用に結びつくのだと信じております。 お陰でこちらは製品への解説や記述がどんどん詳しくなっていきます。それを素直に見てくださる方には、信用していただけるかと思います。 しかし、自分の心のなかに猜疑心を育ててしまう人は、こちらが何をしても信じることはありません。 疑うべき販売者もたしかに多数あります。怪しいものは用心し、決して軽はずみに買わないことが大事です。 しかし、猜疑心に支配されるあまり、販売者や店はすべて不誠実とレッテル張りをし、誠実なものまで信用せず、まして他人の誠実さまで打ち破ろうというする意識は、もは や行き過ぎたメディアリテラシーと、時代の引き起こしたひとつの病気と思います。 他人は、口先や言葉ではなく行動を通して評価し、信用すべきものは信用しなければ、人生の損失になります。 信用の対価 当店のLED照明につきまして、あるメーカーの社長さんが私のことを気遣って下さり、中国の製造社を表示しない方がよいのではないか、と言ってくれました。 理由は、すぐに真似をされせっかく私が費用をかけていろいろな試験や安全性を確認したことを利用し、模倣者はこれまで絶対出さなかった当方と同じ製造社名を出し、その 信用を利用してオークション等で販売しようとするだろうということでした。それによって、当方の製品が売れなくなるのではないかというご懸念をしてくれました。 この指摘はまず妥当であり、そういうことをする可能性は多分にあります。 ただ、そういうことをする業者というのは、まず”そういうことを平気でできる、その程度の品性と心の持ち主”であるということです。 そういう人間は、取引や経営上、人間関係上で遅かれ早かれ、必ずトラブルを起こします。不誠実な人は、長い営業期間、人生の中でかならずめぐってくる苦難や避けざる を得ない困難に正当な対処ができず、結局は消えるのです。現に、こういうネットオークションで信用に欠ける販売をしているものよりはるかに信用できるはずの一般の店です ら、長い年月行ってきた営業方法の結果、この淘汰の時代にだんだんと無くなってきました。みな、一時は盛りの時代があったのです。 話をLEDにもどしますと、現状でも、W数と値段比率だけをみれば当店製品より安いものは販売前からすでにあります。しかしそれでも、当店製品を選んでくださる、あるいは、 もっと高級なメーかーさんのものを買ってくださるというのは、我々やそういうよいメーカーさんの信用を買ってくださっている以外、理由は見当たりません。 実際、激安のネットで購入したLEDが僅かな期間で故障してしまったということをお客様から伺いました。私はこういうことが無いように、祈りを込めて色々な試験をしてから販 売し、あるいは試験会社に依頼して費用を払って品質検査をやり、わらにもすがる思いで無事故を祈って伊勢参りまで行きました。 試験費用は、2回分で諸々の経費含め、合計12万円程です。私のところのような個人店にいきなりこんな金額を試験のためだけに出せといわれても中々苦しいものだありま すが、お客さんに売った製品の安全性を心配せずに済むなら安いものです。 もちろんここまでしても、充分ということは無いと思います。ただ、できることはこれくらいで人事を尽くして天命を待つしかありません。 しかし、結果や効果はどうあれ、こういった姿勢による信用を買って頂いているのだと思います。 これは購入者側でも同様のことが言えます。安ければなんでもいいという姿勢は、確率的にそれなりに悪いものに遭遇します。安いものが、高いものを総合的に上回っている ということは普通はありません。信用を買うということは、実際大事なことです。 虎の威を借る狐の浅ましさ 目先の利益を欲しがる人間は、一般の方からの信用も目先で欲しがります。信用とは、長い間誠実な仕事や対応を継続したり、身銭を切って社会貢献になることを行った 結果、時間と供に得られるものではないかと思われますが、それを信用ある他者と友人であることを利用して己の信用がそれに準じたものであることを一般に認識させようと いう考えが時々あります。このような浅ましい考えはできるだけ避けたいものです。 「オレは○○の社長を知ってる。」「有名な○○と友達だ」ということを、自分の信用に意味を持たせるために言う人が昔からおりますが、同じ類です。その前に「自分自身 の価値」が大事なはずです。 自らは普段、目先の利益と売上げのために誇大宣伝、アピールの極地を行いながら、その逆の方針で素朴に堅実に信用を得てきたものと友好関係であることをしめして 、友人になって同一視されようという考えならば、これは非常に浅ましいものです。 こんなことをいいましたのも、時々私に近づいてくる小さなメーカーがこういうことをしたがるためです。 そういう会社は、たいがいが”御社にきっと協力できることがある”などと言って近づいてこられます。 私はこの業界のメーカーや業者と、一般的な販売の取引以上の関わりをもって、あるいは持とうとしてよかったことはただの一度もありません。 昔は、私も他の会社と連携し、悪くいえば人のふんどしで相撲をとるような考えが自分にもあったと大いに反省をしております。以後一切、特別なかかわりを持たないことに 決めました。故に、私は表向きの作り笑顔で近づいてくる者を一切信用しません。 これまでの例では、こちらの品物を供給して欲しい、機関紙やページに載せて欲しい、記事を使わせて欲しい、グループに加えて欲しいと、要求ばかりなのです。 それを”協力する”と言って近づいてくるのですからなんとも都合の良い解釈もあるものだと思います。 ではこちらへの見返りはなにかというと、当方の製品をうってくれることだそうです。当店はもともと卸ではありませんし、卸販売は例外としているだけで拡大する意思はまったく ありません。 卸をしますと、そのお店がきちんと、トラブルが起きないように売っているか心配事がとたんに増えます。 かつて活性底面BOXも、「効果がない、騙された」といって私にクレームを言われた方は、取り扱い店から買われた方一件のみです。R.P.LEDのW数の間違いを発表し、返品希 望を呼びかけたときも、当店から販売した70個以上は返品は1個もなく、取り扱い店から出た5〜6個の販売のうちで返品が1個でました。 これは、”売り方”に違いがあるから以外、理由はありません。 長い目で自分の仕事を振り返ってみて、一生懸命仕事をするということと、ひたすらに利益を追求するという事がいつのまにか一緒になってしまい、「こんなに一生懸命やっ ているのになぜうまくいかないのか」と世の中を呪う方もおられます。しかし、自分の利益のためだけに働き、他を省みることを忘れてしまっては、それは誤った努力になって いるのです。 いくら一生懸命に仕事をしても、それが場当たり的な目先の利益のために努力した作業をしているだけでは、それ以上の信用は得られないのです。 感謝と報恩と慈悲魔 人は、感謝の心をもっている人を信用します。それは、報恩の行為で証明されるものです。 10年も店をやり、その間色々なことをやっておりますと、色々な人に関わります。 こここそ、偉そうなことを申し上げて恐れ入りますが、概して、今の人はあらゆることに対して感謝の念が薄すぎます。 また、感謝の心をもたないひとに奉仕的行為をすることは、こちらが一方的に損をしたうえ、相手のためにもならないということをここ数年で痛感しました。 自身が微力しか持たないのでたいしたことはできませんが、その都度出会った人には、かなり友好的に自分のもっているものを提供し、奉仕もできるだけするように心がけ てきました。 しかし、まず”ありがとう”の一言さえない場合もあります。特に、お客という立場の方には、なにをしても「次の注文が欲しいからやっているのだろう」ととられることもあり、 本当に無意味になってしまうことがあります。そのため、以前はよくしておりましたサービスも、最近ではごく控えめにさせてもらっています。 まして自分がしてもらったのに、逆にこちらに協力したような言い方をする方もあります。 機関紙についても、掲載されている広告はすべて無料です。一銭も頂いたことはありません。確かに、こちらから誘いをかけたことではありますが、”載せてくれて有難う” という言葉は数社を除いてほとんど聞いた事がありません。 報恩の行為はしない、礼すら言わない。そんな態度で人の信用を得られないのは当然です。会社がだめになるのは仕方がありません。 本当は人にお世話になったら、礼だけ述べてそのままではいけません。お中元や歳暮のように反射的に即時返す必要はないと思いますが、困ったときはお互い様で次 の機会には返す意思や努力をしなければ、やはり口だけの誠意、礼儀になってしまいます。 私は滅多に人の力を宛てにしないように心がけております。仮に頼むとして多くはお礼付きですが、そんな中で本当に僅かなことを頼んでも、快く聞いてくれる方もあれば 、お礼の割が悪いとなれば上手にあるいはあっさりお断りされることもあります。 善悪の判断やケジメをわきまえず、なんでも人に与えてしまうのは、押付けであり、私の尊敬する高橋信次氏の言葉では、これは”慈悲魔”と呼ばれ、決してよいことでは ありません。 あるいは経営者として、同業者にうっかり秘密を軽はずみで話してしまい、本来、自分が得なければならない利益を(報恩の意思の無い)他人に振ってしまい、その利益で 社会に奉仕するはずだったこともできないとなれば、やはりこれは間違いだと思います。 奉仕は物理的、経済的にできなければ仕方がありません。自分のできる範囲でやれば充分ではないかと思います。 ただし、それをしない言い訳にしていたら永久に奉仕することはないでしょう。都合よく”慈悲魔”という言葉を覚えた人が、それをつかって他人に奉仕しない良い言い訳に し、自分の栄耀栄華にだけ耽っている人が私の周りにもおります。 やはり、そのひとのためになるかどうか、あるいは善悪の判断をわきまえた上での奉仕の精神でなくてはならないでしょう。 感謝の心をもっていない人に過ぎた親切は禁物であると思います。一見、薄情そうな人に親切にすることによって感謝が芽生える場合もありますが、やはりそれはその人が もともとそのような心を持っていたのだと思います。 聞けば当たり前のことです。しかしこのバランス感覚を体得するのはやはり体験が必要だと思います。私は愚か者ですから、経営を9年し、何百万と無駄にしてようやく骨身 に染みて少しわかってきました。昨今は我々経営者は本当に、骨身にしみることばかりです。 心は顔を変える 最後に、信用論のおまけとしまして、大変驚くべきことを発見しましたので追記しております。 以前、行為は人を作ると申しました。私はごく最近、驚くほど顕著な例を垣間見ました。数年前、ある激安の量販店のご店主が店を始めた当時に、情けないことですが私の 問屋より安いものが多かったため、店で使用する器具などを売ってもらったことがあります。その方は、特別とはいいませんが、結構爽やかで素直な普通の目つきをされてい ました。そのお店はそれから商売繁盛のようで、一般のお客さんからは受けはよいのではないかとおもいます。ただ、いわゆる価格破壊型の店というより、もはや「業界破壊 型」の店ですので業者や店間の噂は当然ながらあまりよくありません。 数ヶ月前、その方に数年ぶりに会いましたら、本当に顔の相と目つきが変わってしまっていて、驚きました。いわゆる悪徳商人のような嫌な目つきです。 きっと、色々なご苦労もされたのでしょう。しかし、そういうものだけではなく、雰囲気が違います。私は、彼を知る他の人にもこのことを聞いてみましたが「いや、あなたもそう 思われましたか・・。」という反応でした。 恐ろしいものです。彼自身は何も、法律に触れていることでもないのですが、公を破壊してでも自分さえ儲かればよいという心は、その人の目つきまで変えてしまうのだろう かと思いました。私は彼よりよほど不細工なので見たくはありませんが時々鏡を見て、自分の目が腐っていないかしげしげと見るようにしています。 -------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------- 本章は、商売における人と人との好ましい関係を検証・考察したものです。 人間は本来、互いに助け合い、生かしあって生きるべきものであるはずです。不便であった時代はそうしなければ生きることができなか ったため、嫌でも互いにふれあい、 自然に血の通った人間の共同体があったようでした。 しかし、時代が進み、便利になるとともに人間性の欠如と個人主義が進み、拝金主義とともに、他人は自分がいきるための道具であるような考え方を本気でしている者も増 えました。あるいはそう意識していなくても、結果的にそのような振る舞いをしてしまっていることも少なくありません。 本章では、いわゆる”お客さんと上手に付き合う”あるいは相手を”あしらう”または”処理する”というような小手先の販売術の話ではありません。真に健全な人間関係、精神 を維持しながら、かつ適度な度合いのお店とお客の関係を維持する方法を考えるものです。 お客さんと店の関係は、一般の人々の関係とは実際にはだいぶ違います。お店とお客は、必然的あるいは強制的に知り合い、接点を持つ関係です。 概して、お客さんの立場というものは強いものです。 人は自分の立場が強い場合にこそ、本性が出ます。そういう意味で、我々は普段、お客さんの裸の心の姿と触れ合う機会に恵まれます。 もし、同じことで悩まれている小売店経営者の方々に、なんらかのお役に立てないまでも、同様のことを考えている者もいるという慰みにでもして頂ければ幸いと思います。 店は憩いと共同体形成の場所でもあった 本来、お店は単に商売や取引をするだけの場所ではなく、人と人の触れ合いと憩いの場所でした。たとえ一人暮らしをしていても、買い物には出かけます。 毎日なじみのお店で買い物をし、ご店主やその家族と世間話の10分でもして帰る、そのうち、お客同士にも知り合いができて顔見知りになる。 誰かが数日も来なければどうしたのだろうと心配になり、ほかのお客にも聞いてみる。心配で家に確かめにいくと病気になっていて、そのために一命を取り留めた・ こんな話は、昔はよくあったと思います。品物の売買を通して、自然に人間関係が出来上がり、 その分、プライバシーの垣根は低くてわずらわしいこともきっとあったと思います。しかし、一人の寂しさは、親しさの中でのいくらかのわずらわしさとは比較にならないほどの 辛さです。 もちろん、人によっては好む付き合いの深さに差があるため、互いにそれを察して適度に調整しあいます。人間にしかできない血の通った関係が過去の日本には沢山あった と思います。もちろん今もあることでしょう。 そのなかで、店という場所も、庶民の中にその生きた関係が育つ、大事な共同体形成施設であったのではないでしょうか。 しかし、今はだんだんとそういうことがなくなり、利益至上主義に余分な憩いの機能を極力排除し、従業員をも道具とみなしたチェーン店、大型量販店ばかりが台頭し、その影 でかつての家族経営・有機的な人間関係を形成できるようなお店はどんどんと減ってしまいました。 それの原因と、今の利益至上主義に傾倒した販売は何をもたらしたか、マイナスの話が中心となってしまいますが、考えてまいります。 100円以下になった義理 10〜15年くらい前までは、量販店や安い通販店などはまだ珍しかったため、それぞれの個人のお店は互いに色々な楽しい話をする憩いの場所でかつ、実際に購入もする 場所として機能していたように思います。しかし、販売だけに特化している安いお店、いわゆる量販店・通販店が多くなってくると多くの方は購入はそちらでされるようになり ました。 それでも人は同時にくつろげる、あるいは自分の話を一方的に聞いてくれるような場所は未だ求めているところがあります。そして良心的なお店ほど、そういうお客さんも 大事にします。話ができるようなお店なら、同じ趣味の話が間違いなくできるわけですから、お客さんにとっては居心地が良い場所、拠り所であったことは事実だと思います。 まして魚が好きな人にとって、互いに同じ話ができる人が集まっている場所はとても嬉しい憩いの場所となりえます。 ただ、それはあくまでお客さんが買い物をしてくれるから、その余力のサービスとして成り立っていたものだったのですが、残念ながら、現在は高価なまとまったお買い物 はネットの通販店等で済ませ、話をする店では申し訳程度の購入をし、時間だけをつぶすという方も増え、そういったお店を圧迫してしまっている場合が増えました。 個人のお店の嘆きは、直接あるいは業者を通じて年中耳にします。あまりにも買わなくて長居、長電話だけをするお客さんが多いため、もう客が長居できないような店作り や態度をとらざるを得ないというような話も耳にしたことがあります。これは、実に切実な問題と思います。 私の交友店は、私と話が会う人々ですから、多かれ少なかれお人よしが多いです。ちょっと情に流されて、何かをサービスしてあげたり、何かをあげたりすることもよくあ ります。 あるお店が、初めて小動物を飼いたいと言った人に、何度かお店に来て悩んでいたために、まだ何も買っていないが色々と相談し、話をしているなかでつい特別に¥5000 以上も安い値段にしてあげるということを決めたそうです。それで、後日改めて買にくるので、飼育のためのカゴややエサなどの器具類はそのとき相談しましょう、ということで とりあえずその日は帰られたそうです。 そして数日後、その方がやってこられたのですが、聞けばもう器具類は全部買ったから、その特別に安くしてくれる約束の動物だけ約束どおり売ってくれといったそうです。 理由を聞けば、あっけらかんと「ネットの方が¥100〜¥200安かったから・・・」といった感じで言ったそうです。 散々相談にのってもらい、しかも5千円も安くしてもらっていても、他のものが僅か数百円安ければそれだけ綺麗に他所で買う。しかもそれをあっけらかんと平気で言える神 経はすごいと思います。 このご店主「嘘でもいいから、『友人からいらないのをもったいないからもらった』とかなんとか言ったらどうだ・・」と私に電話で嘆いておられました。 このご店主、今回は安く売ることを約束していたから生体は売るが、もう二度と来ないでくれといったそうです。当たり前です。私でも言いたいです。 皆さん、これご店主が悪いと思われるでしょうか。あるいはお客さんは別におかしくない「正常な人」という認識になるのでしょうか。 これを買い物上手だと思うのなら、とんでもないことです。 確かに、今こういう人が普通になりつつあります。実際、近年は私がこんなことばっかり言っておりますのでさすがに減りましたが、買い物は全部よそで、私のところで相談だ けしている人などはそういわざるを得ません。私がこれをはっきりいいますのも、仮にこれを読まれて気を悪くされたからとって、こちらは何も困らないのです。 目先の値段ではなく「いつも親切にしてくれるから」「以前、サービスしてくれたから」ここで買うという、恩に報いるという意識で店を選ぶ人が今本当に少ないのです。 そして(タダで)利用できるものは徹底的に利用し、ほんの僅かでも安い方を無条件で選ぶ(ただし自分の感情で嫌いな店だけは避ける)という純粋な利己主義といわざる をえません。 市場原理主義、または新自由主義という、こういった仁義なき、個々人や会社の目先の利害の追求だけで市場を形成していくことは、拝金主義に、そしてやがて社会の衰 退に繋がるのではないかという懸念の理由がここにあります。 人の親切を数百円分にも評価せず、目先でほんの僅かでも安価な方を躊躇無く選ぶという薄情さは、本当に恐ろしいものです。 ただこれは、店は一般の自分(客)よりも立場が下であるという無意識の特権意識がそうさせている部分もあるかと思います。 私はこういうことを”100円以下の義理”と呼ぶことにしています。 親しき仲にも礼儀あり 前述しました”¥100以下の義理”とも重複しますが、あるお店に入り浸っていた人々、いわゆる常連さんがそのお店が好きなことは間違いないまでも、「買うならまずここ!」 という購入においても最優先的に利用されているかといえば、これも最近はあやうくなりつつあります。 実際、当方が完全通販になってから、かつて店舗時代に足を運んでくださったお客さん、長くゆっくりと話をしていたような方々でも、今でもご注文を頂いているのはほんの 数名の方です。 私の店は店舗時代は金〜月曜日までの週4日の営業でしたが、来られていた人々の多くは土日にお出かけされてお店を数件回られ、最終にうちにこられてゆっくり時間をつ ぶすという方が結構居られました。 「今日、○○でオオバナを¥2000で買ってきてん〜〜♪」「へえ〜安かったね〜。良かったね」というやり取りが普通の店でした。私も普通に応対してなんら抵抗も感じなく なっていました。またあるときは電話がかかってきて、「今○○(他店)にいるんだけど、蛍光灯買おうとおもうんやけど何がええか教えて。」というのもありました。 確かに、もうよく見知った人が多いので、私もこういうことに抵抗が無くなっていました。しかしふと考え、自分ならこんなことができるか?と思えば、やはりできません。 店をなぶっているようなものです。親しき仲にも礼儀あり「なんぼなんでもこれはあかんやろう」という、線引きや節度は必要なのではないでしょうか。 また、私の周りにも友人としての海水魚のグループや仲間があり、以前ほどではありませんが、細々ながら今も時々個人的に付き合いをしています。 友人達が来るのは、遊びに来るとき、相談や困ったことがあったとき、宴会のとき、あるいは何か特別な相談をされてくるか、処分に困るもの、何か個人的に作って欲しいと いうときです。 個人的な付き合いで、あくまで友人として、こちらから水槽や色々な器具をお祝い何だといってあげた事はよくあります。店と客の普通の関係ならありえないようなことです。 しかし、実際にこの仲間の人たちは「買うならまず海水館から!」と言ってくれる人は、あまり多くありません。 あくまで数多いほかの店の中のひとつの選択肢・利用の手段であり、値段・商品的に絶対的に得なものがあれば買ってはもらえることも稀にありますが、安ければ躊躇無く他の お店を利用されます。普通の一般の通販でよく利用してくださる方の方が頻度も価格も実際、はるかに多いです。 すなわち、積極的に購入はしないが個人的に人格は認めた友人ではあるというものです。こういう方が我々の仲間では大半です。 ある意味、健全な人間関係だとも思います。 ただ、これは純粋な疑問で、もし自分なら、友人や店という立場関係なく、普段からこれだけのこと、普通ならありえないほどの事をしてもらっていて、いざ何かを買おうという時 に他の店でまず買うことを考えるだろうかと思います。そしてそういう思い方、考え方をする関係で、仲間や友人、あるいは常連?とは如何に・・と思うのです。 また、仲間や友人とは、宴会や面白いときや、自分が利益を得るときだけ集まってくるものではないはずです。 自分の家の隣に個人的に親しいお家の薬局があって、いつも自分になにかと親切に薬の試供品やあるいは色々な薬をほとんどただでくれたお店があったとし、いざ自分が 何かの薬を買おうというとき、そのお隣のお店のことも気にならず、遠慮なく他の遠方の安い店で買うことができる、隣の人が失踪してもたいしたことがない、という感覚が現代 人にひろがりつつあるように思います。これは、まともな人間の共同体ではないと思います。 本当の友人なら、時には友人を助けるために、鬱陶しいことにもあえて関わったり、時間や労力や、あるいはお金を出してあげなければならないこともあります。 それがなかったら、如何に表面上は親しい人とはいえ、ただの”知り合い”だということです。 他人への厚意をする人としない人、あるいは最低限、社交辞令的にはする人など、人によって違いますが、最近は本当にうっすらとした薄情さを感じます。 ここ数年、こういったことに人間や仲間、友人といたことに漫然とした疑問を覚え、付き合いに少し距離をとって考え直すことにしました。 また、私はこれまで、商人相身互い(あきんどあいみたがい)という古い概念のもとに、自分が相手にしてあげられるときは、できるだけしてあげよ、また自分もお世話になる かもしれないと思ってきましたが、考え直すべきところに来たという気がします。 また、自分自身も時々振り返ってみて、自分のしてもらったことと、実際に人に厚意・行為したことを思い出してみることは大事かと思います。 絶滅寸前の”血の通う”店 私のところは、開店した2002年4月〜2003年11月までは店舗販売を行っておりましたが、駐車の問題に加え、上記のような問題が大きくなりどうしても経営が成り立ちませ んでした。一人のお客さんにあまりにも時間がかかりすぎ、個人的に深い知り合いが増えてきますと営業時間などあって無いようなものになってきます。夜8時までの営業 でしたが、7時50分に来て、11時半まで居られるということもしばしばありました。帰れとは言えませんので、相手が気の済むまで従うことになります。 一度、友人の店で同様のことがあり閉店時間を1時間以上も過ぎた後「本当にすみませんが・・」とお願いして帰ってもらったところ、後に店の対応が悪いと、さも無下に扱わ れたように他者に言いふらすようなこともありました。ひとたび相手の機嫌を損ねれば逆鱗に触れ、暴発する関係は正常な関係とは言いがたいと思います。 私はいろいろな用事があって友人の店などに行きましても、可能な限り早く帰ります。久しぶりでも長くても1時間を目処とし、あるいはすいている状態で新たなお客さんがこ られたらこれを契機に失礼します。相手は仕事中であって、まして私は客ではありません。友人のことを本当に思えばそうするべきだからです。 自分が気が済むまで居るのは、友人のすることではありません。また、特に私は付き合いのある人でも、自分が好かれているとは思わずに付き合うようにしています。 子供の頃から好かれるよりも嫌われ、あるいは苛めの対象であったことが多かったため、一次元的に他人は自分を嫌うことの方が多いという意識があります。 脱線してしまいましたが、私が店の開祖時代から質問などに返答をしているうちに、どんどんそれが増えつづけ営業に支障がでてきてしまったため、店のページに記事を掲載 したと、よく申しております。本当にそんなことがあるのかと思われるかもしれませんが、一度親切な店と思われ、また話し相手によいと思われると、以後頻繁にそういう電話が かかってくるようになります。実際に、雑談をしたい方から毎日のように電話がかかっていた時期がありました。 もしこれに対応するのが店の義務といわれるなら、これは実質的に店を営業するなと言っているのと同じです。 やむを得ず、電話対応を原則的にやめました。店のくせに電話を受け付けないとはとんでもない常識はずれですが、一度かかってきた電話はこちらから切ることができません。 普通、自分のよく知っているお店に1〜2ヶ月に1回程度電話をするぐらいは誰も悪いとは思いません。昨年8月からカートショップを作成して以降、ご登録頂いた会員数がすで に700人以上、またそれ以前の約8年間のお客様などで、お客さんが合計で1000人居られたとして、平均して一人がたった二ヶ月に1回、15分のお電話をされると考えても、毎 日4時間以上電話することになります。これはとても個人商店が物理的・時間的に対応できることではありません。 そのため、質問はメールのみ(補助にFAX)とさせて頂き、こちらの都合のよい時間に返信させてもらうとともに、返信した内容と同様の内容をホームページの該当場所へあげ ておきます。 こうすれば、ホームページの内容も順次充実していき、質問内容もページに書き込むつもりで返答しますので自然と丁寧な答えをします。 メールだけにさせてもらえば、仕事外の話でも十分、応対することができます。 また、発送についても注文を頂いた当日発送はだいたいが可能な場合が多いのですが、これも悲しいかな個人営業をしておりますと他の仕事や家庭の事情で発送ができな い日もあります。しかし、翌日であればまず間違いなく発送ができます。そこで、”可能な場合のみ”当日発送をさせて頂きますと、させて頂いています。 このように、こちらが運営しやすいように、それでいてお客さんの用件もこなせるように折り合いをつける方法を考えていくことも重要ではないかと思います。 そして、それでご理解・ご容赦いただけない方にまで無理に買っていただこうとはしないことだと思います。 昔からの傾向で電話を頻繁にされる方、質問の非常に多い方は実は平均してみてご購入は少ないのです。これまで、なんどとなく相談、質問メールを頂きましたがついに一度 も注文をもらっていないという方が開店以降、何人も居られます。 頭のいい経営者さん達はこういったことをとうの昔に予見していたのでしょう。後述しておりますが、今、いわゆる”成功”を勝ち得た経営者さんは、一人の客に時間をかけずに 効率よく悪きいえば”処理”する機構をつくりだしたことに成功したとも言えると思います。 お客さんに個々に相談にのり、商売で知り合ったご縁を元に仕事以外のこともお付き合いすることは必ずしも悪いことではないと思います。実際それが新たな商売の縁や人生 の糧になることもあります。 ただ、それは際限なく行うべきではないでしょう。店を存続させ、他のお客さんへの対応も損なわず、自分自身も生活上で健康を維持しうる範囲において、すなわち商売であろ うがなかろうが、自分の精神的、経済的、時間的に許容できる範囲内で人と付き合うべきであって、単に暇つぶしのためだけに店に入り浸っている人に無為に時間を取られ続け 、結果的に経営が傾くようなことをすれば、本当のファン、ここで買うと決めてくれている大勢のお客さん皆に迷惑をかけることになるからです。 買わない客には態度を変えるという意味ではありません。すでにお金を払って待っている方、払おうとして待っている方、まさに今買おうという方へ対応を優先するのは店として 当然のことであり、それを非難するのはおかしいということです。 愛されることと、利用者が多いことの違い 愛されているお店と、利用者の多い店は微妙に違います。以前もこのようなことを書いたことがありましたが、あまり買わないけど好きな店、いつも安いから買うけど店自 体はあまり好きでないというお店です。真に愛されている=売上げの多いお店では決してありません。 ただ、残念ながら、昨今は値段さえ安ければ販売者をいとわず、とにかく購入してしまう人が増えました。 これが結果的に、愛されているはずのお店が先に消える原因だと思います。 もう10数年以上前、オウム真理教が大阪の日本橋で、マハポーシャというブランド、また他でもパソコン店があり、かなり安く販売しており、お客さんが殺到していました。 あの売り上げたお金が、サリンガスに化けて人を殺したとも言えるでしょう。目先で値段さえ安ければなんでもよいという、公共心の低さが自分達に返ってきた極端な例の一 つだと思います。 この業界でも、値段は安いが品質が悪いというお店はよくあります。すでに”あった”と言ったほうがいいかもしれません。一般の方は一度ある商品を¥500で買って しまうと、例えばそれが魚で、購入後すぐに死んでも、別のお店の¥1000の同じ魚は買えなくなる人が多いようです。 あるいは、同じ値段で状態の良いところを探されるのですが、私の知る限り、そのような激安で品質が良いという噂があった話はまず聞きません。 しかし、安いところがひとたび話題になると、大勢の方はそこに集まります。その間、状態を重視しているお店は、売れないので魚を止めるか、店ごと止めてしまう場合もあ ります。 一方、私の感覚ではお客さんの品質への要求というのはものすごくシビアです。自分が水槽に収容して、先住の魚に小突き回されてボロボロにされていても”様子を見る” わりに、購入魚にヒレの裂けの一つでもあれば指摘して責める方も多いです。魚の尾びれの先に0.5mmほどのリムフォシスティス(魚の体にしばしばできる吹き出物の ようなもの)のかけららしきものでも写真にとって指摘されたこともあります。 この厳しさで、よく激安のそれなりの状態のところで何度も買うなあと、仲間のお店と不思議に思って話していたことがあります。 しかし最近になって、複数の方から「最近、海水魚を買う場所が無い」という訴えを聞くようになりました。お店は沢山ありますでしょう?といいますと、「店も減ったし、種類 も少なく、状態も悪い」ということでした。状態重視のお店はかなり撤退してしまったらしく、しかも品質無視の激安店もさすがに状態の悪さに愛想をつかされてお客がはなれ つつあるようです。 品質が難しい商品について、利益追求のためだけにものを売ることだけに終始する量販店が台頭してくるとこういう結果になります。結局その後に何も残らなくなるのです。 昨今は、大型ショッピングモールにおいて、利用者の多い店しか残りません。というよりテナント賃料が高すぎて残れないのです。結果、馬車馬のごとくものを売る店だけが 残ります。愛される必要などない、利用されていれば良い(=高い賃料さえ払わせれば良い)という経営判断なのでしょう。また一つの結果として、いわゆる左記の大型ショッ ピングモールには、”店以外のもの”がほとんどありません。あれだけ大きな施設であれば、市民が利用できる企画展示部屋、大小の催し会場、色々な安価で楽しいイベント などがあっても不思議ではないと思うのですが、そういう関わっても”旨み”のない、また少ないものは相手にもしていないという印象です。 しかしそういった、売り上げは少なくても、雰囲気や文化的なイベントや、またお店では真に親切な人柄のお店、すなわち愛される店やものを排除することは、それは もともと購入意思の無い人に、購入意思を与える機会を失っていることでもあるのではないかと思います。真の”客寄せ”はこういうところにあるのではないかと思います。 なぜなら、上記のような大型ショッピングモールには、購入意思を当初から持っていない例えば私のような人間には、もう行く目的が何も無いからです。 そういう意味では、市営のいわゆる箱モノの施設は、目的だけはそういうものではなかったかと思います。ただ、こちらはあまりにも経営ができず、市民の税金で補助されて 運営されるという結果になってしまいました。 なんとかそれの両方の良いところを持たせようとしたのが例の第三セクターだったのですが、過去は双方の悪い面だけを持ってしまった場合が多かったようです。 無意識下で育った優越感 一般の人々の意識の中に、客は無条件に偉く、自然に販売者、あるいは店というものに対して、相手を”目下”と見、もっとひどくなると”卑しみの目”でみる無意識が徐々 に育っているように思います。 それは、色々な表現で現れます。 町に出て、一般の人同士がもし何かのことがきっかけで会話する機会があった場合は敬語でも、お店の人、店員さんに話し掛けるときは、対等語(いわゆるタメ口)になりま す。 また、例えば当店でも色々な飼育等の相談をされる方があります。その中で、返答に対する礼を述べられる方は全体の半分以下です。 初対面で一方的に世話になり、相手の手数を取っても礼の一言も言わないということは、普通の対等な関係ではまず有得ないことです。 ただ、そういったお客さんには、我々販売側がとにかく買ってもらいたいために媚びへつらい、そうさせてきたことも多分にあります。 結果、横柄なお客さんに対しては、ある意味で最初からすでにあきらめ、マニュアルどおりの返事をしておけばよいという心無い口先と形だけの礼節だけになりつつあるよう にも思います。 お客とお店は本来,対等であるものであるはずですが、現状ではとてもそれは望めないと思います。 これは”店”という対等ではない相手に対して、礼節を払う必要は無いという常識、あるいは無意識が出来上がってしまっているからでしょう。 ”販売者や店には礼儀を払う必要なし”という態度は、一般的に当たり前になってきているように思います。 これがさらに進むと、礼節を払わないばかりか、さらに相手に一線を踏み越えた横暴な行為をするようになります。 以前はしばしば当方のホームページの内容が気に入らないといって抗議したり意見される人もありました。この内容が良いか悪いかはとりあえず別としまして、趣味程度の 事柄で、店以外の他人のホームページに、直接メールを送りつけて抗議するなどという行為は、普通ありえないでしょう。多くは初対面、あるいはそれに近い程度の面識です。 これはよほどの優越感をもっていなければできないことです。気に入らなければ、普通のページなら読まないだけのことですが、自分より目下と意識している者が、偉そうなこ とを言う事が許せないという思考と、自分はなにを言っても許される、言う権利があるという無意識がなければ出来ないことではないかと思います。 あるいは、以前驚いたのですが、私がお客さんへ個人的に相談の返事をしたメールの内容を何の断りも無くそのままブログ等に名前付きで転載している人も居ました。もし逆 の立場ならとんでもないことです。なぜお客さんならこれを無断でやっていいのでしょうか。犯罪的・あきらかな悪意に基づき、他の助けをもとめなければならないようなものであ れば別かと思いますが、そうでなければ最低限、相手に一言許可を得るべきではないでしょうか。(実際、きちんと連絡を頂いた上で掲載されている方もいらっしゃいます。) またある時は、当方の事務所から直接買おうとして年に2〜3人くらい、突然やってきて家の呼び鈴を鳴らすことがあります。 家人が出ると、その人たちの第一声は 「ここ魚屋ですよね?」 「ホームページみて来たんですが。」 というものです。”こんにちは”も、”初めまして”もありません。 いわゆる一行メールや、以前よくかかってきました質問電話と同じ類のものです。 みな、口から発するのは自分の目的語だけで最低限の挨拶、礼儀も持ち合わせていません。 セールス目的でやってくる人の不自然なまでの丁寧な態度が、ちょうどこの裏返しのようにも私には感じます。 以前、私の事務所に勝手に知らない人が入っていて、私が驚き「ここは店ではありませんよ!」と言うと、「ふーん、違うんですか、じゃあいいです」と言ってしげしげを 周りを見ながらいそぐでもなく事務所を出て行くような人も居ました。 大人としての常識的な挨拶もできないか、よほど自分達に潜在的な特権意識が無ければこのような態度はとれないものではないか、と思いますが、どうもこれも少し間違 っているようで、むしろこれが現代の30代くらいまでの人の、別に特段変わっていない標準的な態度、人柄になりつつあるようにも思います。 あきらかに、時代に伴う人間性と知性の劣化を感じざるを得ません。 挨拶も板についていない者は社会人としてやっていけないはずなのですが、あれでよく日常生活や日々の仕事ができるものだと思います。 それとも相手によって態度を豹変させ、目上にはペコペコし、目下には横柄な態度を取るのでしょうか。 誰でも目上や立場の強い人には頭を下げます。損得勘定が一致している相手に心無きものでも頭は下げますので、それはごく当たり前のことです。 自分に対して立場の弱い人にこそ、己が威張っていないか、横柄な態度をとっていないか注意しなければなりません。このときが自分の本性です。なにを言っても自分が 責任を問われない時です。ネットの匿名での発言が、実にそれをよく表しています。 普通の感覚で見た時、立場の弱い人に横柄な態度を取る者は醜悪です。すでに横柄という意識すらないのでしょう。 家の近くにコンビニエンスストアがあり、時々買い物にもいきますが、客を見ていますと、店員さんが頭を下げて礼を述べても何も答えず、荷物をパッととって肩で風切るように プイと出て行くような人がほとんどです。あれで何か気に入らない態度を取られたときは、店の対応にだけ文句を言って謝罪を要求して自尊心を満たし、また店の責任者はそれ にペコペコと頭を下げるのです。 本来、店と客は対等です。五分と五分の取引です。どちらが下でどちらが上というものではありません。お店の態度は指摘を受けますが、お客のそれは放置されているに 過ぎないのです。我々店は、買ってくださったお客さんに感謝しなければなりません。しかし、本来はお客さんも、売ってくれた相手に礼儀や感謝の念を持つべきです。 仮に1億円持っていても、お店がなければ、パンひとつ買えません。実際、旧ソ連のように、ものが足らない共産国では品物を買うために長蛇の列ができていましたが、もし あのようになれば、立場が逆転するでしょう。 冒頭にも述べましたように、私たちは普段、お客さんの裸の心と触れています。 何かひとつトラブルやこちらに落ち度があると、鬼の首でも取ったかのように態度をとる人も最近では少し増えたように思います。 実際、長く続いた関係でもそういうことは時々ありまして、だんだんと遠慮が無くなり、言うことがエスカレートしてくるようになります。 こちらもそれに呼応しきれなくなると、破綻します。 私と一旦は親しくなったお客さんでも、これまで僅かですがそういう事がありました。私は親しくなった方には個人的に普通ではありえないサービスや大小の物心での応援を してきた場合が多いです。が、そういう過去の厚意があっても、ひとたび気に入らないことがあると啖呵を切って破綻させてしまうのだなあと、最近では本当にはかなく思います。 商売と言う五分五分の取引を除いては、サービスや、ホームページや雑誌へのお客さんの何がしかの掲載+さらにその御礼など、実質的にはほとんどこちらから厚意しただけ の関係がほとんどでしたので、こちらは別に構いませんが、そういうおそらくは稀な関係を、一時のことで手のひらを返したように敵扱いして関係を止めると言うのは、損にはなら ないのだろうかと思います。 私自身が過去、そのような厚意をしてくれる人やお店にほとんど遭った事が無い、という行為をこちらはしてきたつもりでしたので、そういう関係を大事にしようという意識も薄い、 とにかく目先で利用できれば良い、自分にとってその場その場で得か損か、それだけの利己主義・個人主義のきわみになってきているのではと思います。 普段やりとりをしているメールは、案外その人の本性をむき出しにした文章になります。 昨今の厳しい世相では無理もありませんが、荒れた心の人々と触れることに、少々疲れを覚えることもあります。 私は機関紙BL6号の、”@-ショップ相談所”で、お客を目上と捕らえていると書きました。この意味は、対等として対応するにはあまりにも現実がかけはなれすぎているた め、便宜上、目上とみることにしたという意味です。 お客さんは目上の”神様”ならぬ”上様”とし、こちらは”誠意ある自動販売機”になることにしました。 世の中の状態にあわせて、たとえ一時とは言えそのように雌伏しなければえ生き延びることができませんが、本来の道は忘れずにいたいものです。 優越感の上での好意 お客さんから好意を持ってもらえることは、店として大変嬉しいことであり、また有難いことです。ただ、この好意を持たれるというのも、先ほどの無意識下にある優越感の上に 持たれている好意は、時に大きな障害になってしまうことがあります。 私の場合、お客さんと魚以外の個人的なメールややり取りを交わすことが多く、注文以外でも日常的にメールをかかれる方、また自分自身の色々な話を久しぶりだと言われ て大量の文章を送られてくる方もあります。こちらも、ご返事にとまどうことがあります。何十行とかかれているメールに、数行での返事などできません。 向こうとしては、こちらを信頼してくださってそういうお便りを下さるのですが、ではもし逆の立場で、所詮時々買い物をするだけの海水魚屋から突然長文の近況報告などが 届いたら、おそらく受けた方はギョッとされるでしょう。ここなのです。自分は友達のように思っているのですが、逆に自分が普段している事と同じ事をされたら承知ができない のです。ということは、結局対等ではないのです。要するに店側が一方的に相手の話を聞くだけという関係です。飲み屋さんのお上さんが、お客さんの話を上手に聞き ながら相手をされるのと同じです。ただ、我々の場合で困るのは、そういう個人的なメールをやりとりしなければならないだけの関係が増え、肝心な御用命はさっぱりという、す なわち、その方にとってみれば商売などもう関係無い、あくまで”友人”としてメールを書いているという意識だけが出来上がってしまうので、注文でなくても平気で便りを出される ようになるわけです。さらに問題なのは、そうでありながら客としての優越感だけがまだ残っているのです。 ですから、頂くメールに賛成できかねることなど書いたら激昂されるわけです。私は一時、わざと相手に反論して、ケンカまではいきませんが関係を強制的に終わらせたことも あります。そうしないと、日々が対応できないのです。 こちら忙しくて、長文がかけないず返信をせずにいますとさらにメールが来て、さらに最後には数百円の僅かな金額で注 文を出され、無理やり返事をさせるという方もあります。 悪意より好意の方が、絶対にこちらは嬉しいです。それは間違いありません。どんな迷惑な好意でも、小さな悪意の100倍嬉しいです。 しかし、実際問題として、販売に結びつかない上に断れない不対等な人間関係ばかりが増え、それに翻弄されていては毎日の仕事はできないのです。 メールは、手紙以上に出せば相手に返信を求めるものです。 本当に自分が相手の友人、または理解者と思うなら、相手のことを想像し、思い、今これを書いては相手に迷惑にならないかどうか・・それをよく考えた上での行動をとるべき かと思います。 そうでないと、結局、好意を持った相手に、自分の都合にだけよく対応させたいというだけであったことになってしまうと思います。そして、内容も次第にエスカレートし、しまい は、相手の生活や職業自体にまで難癖をつけるようなことまで言い出します。 このあたりのことは、互いに節度を持たなければならないと思います。 安易な「お客様第一主義」が人を腐らせる 上記のようないびつな人間関係・そういった慣習を築いてしまった原因は、我々販売サイドにも多分に原因があります。 対等の関係ではありえないことですが、お客さんが「自分は店よりも偉い」という無意識中の意識がだんだん強くなってきていることも、こういった歪みをつくり、結果的にお 客さんにとって居心地の良いお店を自ら減らしていってしまっている原因の一つとなっていると思います。 私が今述べているようなことは、まず普通のお店は言いません。言えば反感を受け、今店がもっとも恐れることがこれです。正論でも、必要でも余計な事は(自分の存在が 分かる場所では)言わない、という”事なかれ主義”が今の日本人の大半の考え方です。 そしてこれがますます一部の常識はずれなモンスタークレーマー等を増長させている一面があります。自分が悪者になり、謝って済ます、いわゆる「大人の対応」は日本人 の美徳でもありますが、事なかれ主義は、結局目先の損や厄介ごとをさけたいだけのものでもあります。 いかなる場合もまるく収めさえすればよいというものではありません。一人のお客さんの横暴を甘受、対応することが、他の大勢の良心的なお客様全員を裏切ることになる 場合もあります。むちゃくちゃなことを要求する人とは、ズルズルと関係するより喧嘩別れしておいた方が後々トラブルが起きないという面が確かにあります。 実際、今の販売業の最前線である大手の多くのチェーン店などは、微塵もこんなことを口にせず、実質的な客と店の商売以上のふれあい、同好の士としての憩いの場所 としての機能はほぼ完全に無くし、最初から販売のみの機能になっています。物を買ったら早く帰らざるを得ない店のつくり、その上で文句を言われない、言わせない態度、 運営方法になっています。実際、その方がはるかに売上げが大きくなるからでしょう。 結局、世の中でいわゆる成功したと一般に言われるチェーン店等は、上記のように、客に購入させ、無駄な接点を持たせず、人間を道具としてのみ用い、できるだけ早く帰 ってもらい、それでいてクレームは言われないという”客を効率的よくさばく”システムにおいて成功したといえると思います。 これは、お客さんという一般の人々が個々人のマナーを失い、しかもそれを自己修正する機能が無い時代には、いわゆる成功をえるためにやむを得ない方法かもしれませ ん。 昨今、色々なチェーン店の掛け声で”お客様第一主義”という言葉をしばしば耳にします。 また「あらゆる場合にお客様は正しい」という考え方が、古い古いモノクロのアメリカの映画でもみられました。 こういった考えは確かにあり難いお客様を大事にするという考えの延長上にあったことかもしれませんが、横柄であろうが横暴であろうが利益をもたらすものには無条件 に平伏するという態度が、社会を腐らせ、将来を損なう根本的な誤りの一つであったと思います。 ”お客様第一主義”は、一体これは、どのような意味でのお客様第一主義なのか、それとも単なる掛け声なのか、明確ではありません。 もしこれが、お客さんの最終的な幸福、あるいは社会全体の正しさを維持し、修整するため、例え一時世間やお客さんから不興を買うかもしれないことでもやる、言うという、 そこまでの覚悟をもったお客様第一主義なら大賛成です。 現在の販売で重視されることが、とにかく売上げ、買ってくれることがすべてであり、そのためには相手を持ち上げ、おだて、売るためにならサルにでもなるということが、 今のいわゆるお客様第一主義という言葉の解釈になっている気がしないでもありません。 それは結局、自分達の利益を、目の前で自己に利益を与える可能性のあるものを無条件で肯定するだけの目先の利益至上主義にしかならないものです。 正しい者は、正しい行動をとる人のことであって、その正しさとは誠実さ、バランス、公、人々全体が恒久的に繁栄する法則であるはずです。 昔、商店街のおばちゃんは、お客さんや近所の子供が悪いことをすれば叱ってくれました。今では考えられないことです。 今は自分の子供が叱られても、それをありがたいと思うどころか、逆に憤慨し、あるいは己のしつけの至らなさを指摘された直感して逆上し、逆に相手に食って掛かる始末で す。店の中で走り回っている子供ひとつ注意できなくて、走っている子供が転んでケガをしたらそれを店の責任にする始末、なんでも他人のせいです。 悪を是正できなくなった世の中は退廃に向かうしかありません。 店側が、とにかくお客さんの機嫌を取り、何か起きてもとにかく納めることが美徳であり、それを第一主義にした結果、お客さんの態度はどこまでも横柄になり、いつのまに か店側を自分の僕(しもべ)か下男のような目でみるような人も多くなりました。買い物をしていても、客の態度の傲慢さや横柄さはしばしば目に余るものがあります。 そのうち、傲慢すぎる客同士がケンカをすることさえ、まれにですがあります。 一方、お店の人も心を失い、もうあきらめきった対応をする人も少なくありません。 確かに、店員や店側にも問題がある場合は多分にあります。しかし、店は対応が悪ければすぐに大勢から指摘、非難されますが、個々の酷いお客さんは指摘されませ ん。時代が悪くなれば、どちらかだけが悪くなるということはありません。双方、近いレベルで劣化していくものです。 そこに、インターネットで匿名で責任無く他者を評価・批判できる場所が加わり、客と言う絶対的に強い立場で他人を批評し、その優越感を満たし、責任無く不満を報復する 場所が与えられました。人心が低下している時代になんという有害な道具、あるいは”おもちゃ”を与えてしまったのかと思います。 店の対応や態度を追求する事も時に重要ではあります。しかし、自分の客としての普段の態度は一体どうだったのか、自分が相手に放った言葉を、時に自分に言われた事 と思って客観的にみてみることも、大事ではないかと思います。 ネット上でも、店の対応について憤られる方も大変増えたといいます。”あの店の対応が・・”などという言葉が頻繁に使われるようになったのも最近のことではないかと思 います。 酷い対応をするお店も各業種であります。私も他店で買い物をすると、自分が普段応対しているだけに、疑問を覚えるようなこともしばしばあります。 しかし最近では、ごく僅かなことでもすぐに腹を立ててすぐそれをネットで自分は匿名で相手だけ実名でぶちまけたがる人もまた増えました。 他人を指摘し、あげつらうことで優越感を得たがる人が増え、反比例して人の指摘や忠告を受け止められる謙虚さ、精神的柔軟性は無くなってきました。 ネットの匿名で好き勝手に他者を攻撃、批評、批判できる環境も、個々人の精神的劣化を助長してきたように思います。 自由の中のモラルを維持するためにも、公共心を育てるためにも匿名社会から実名社会にしていくべきであると思います。 目先の売上げだけを伸ばしたければ、お客さんを持ち上げて神様扱いし、どんな人にも頭を下げていれば良いのです。実際、マニュアル化された多くのお店ではマニュアル の範囲内だけでお客さんを大事にし、個人の心の中にあるはずの本心などはすべて無視しています。すなわち、心無い対応にならざるを得ないのです。 電話口で怒鳴りたてるクレーマーが居ます。これに対応する者は、口では冷静に、お客様、お客様と、とにかく相手を肯定し、なだめ、こちらがただ謝る対応をするのが一つ の方法であるそうです。しかし、マニュアルの真意は、こちらが冷静になるために「相手は、人語を話す吼える犬だと思え」ということさえ言われることがあります。 口先と真意にこれだけの開きがある対応が果たして本当に誠意ある対応と言えるのか、それを思うと、感情的で愚かしいかもしれませんが本気になって言い合いし、口論 している状態の方が、まだ相手を人間扱いしているという意味ではむしろ人間的誠実さの現れとも言えるかもしれません。 口先で綺麗な言葉を並べ、心では相手を野獣扱いしているというこの内心と表情の解離、これが現代のマニュアルだというのであれば本当におぞましい事です。 商業地のちょっと綺麗な綺麗なお店に入ると、町で声をかけてもまず無視されるような綺麗な女性が、笑顔で話しかけてきます。私はその心と行動の解離状態を感じるだけ で怖気がし、最近のそういったお店に入る事自体に抵抗を覚え始めました。私のような不男は特にその差異に敏感です。 有名な小林よしのり先生「ゴーマニズム宣言」作中に、キャピタル・アテンダントをされている女性の読者の方が、飛行機機内で韓国人が機内で出された食事に日の丸 の旗が立っていたのを、不愉快だといって呼びつけて文句を言い、それに対してうまく理屈で柔らかく対抗・対応して封じ込めようとした方に、上司がお客と口論するのは良く無 いといって、結果、その韓国人客の言われるままにお詫びのサービスなどをしたということがありましたが、氏の意見と同様、その女性の意気を尊敬するとともに、上司や会社 の態度、方針は、仕方がないとはいうものの、全く、残念なことです。 同じ立場はありえませんが、もしうちのお客にそういう人がいたら、私は二度とうちの店でものを買うなと言います。ついでにそんなに日本が嫌なら日本に来るなと言います。 過去の侵略とかを言い出すなら徹底的に事実をつきつけて反論します。それは私個人の問題だけでなく、他の日本人同胞・公を不当な立場から守るために重要なことである からです。そういう意味でも、国民が自国を守り、誇りをもつための自国の本当の歴史の知識をつけておくことも重要であるといえましょう。私もえらそうなことはいえず、ほんの 7〜8年まで真実をしらず、中国の主張には捏造が多いことをしりながら、日中戦争でさえ日本の一方的侵略などでは決してなかったことを知り、唖然としました。 話がそれてしまいましたが、真に相手のことを思うなら、あえてケンカをする必要はないとしても、双方が相手を思いやる関係を気付けるよう、少しでも心がけ、有事の際にた だただ片方が頭を下げるだけ、その場を納めさえすればよいという事なかれ主義は、将来を損なうものではないかと思います。近年の日本の対中韓外交とそっくりです。 つい先日、2011年7月12日、大阪・難波の献血センターで、献血センター所員の対応が悪いことを理由に、腹を立てた男が所長を包丁で刺すという事件が起きました。 私はこのニュースを、奇しくもちょうど難波から少し離れた、大阪・阿倍野の同じ献血センターにいる時、献血の待ち時間にテレビで見ました。 もちろん、絶対的に悪いのは犯人です。ただ、所員はクレームをつけてわめき散らす男をなだめるように話を聞いていたようですが、これが結局、このような結果を招いた のではないかと思います。 正直、あの日、難波のセンターに自分がいっていれば・・・ととても残念に思っておりました。(母にはアホかと言われましたが 笑) なんでも、お客様、お客様と、相手の機嫌を取る事ばかりに終始し、丸く収めようとし、普段からこと無かれ主義が浸透し、相手が増徴して確固たる行動が取れません。 客として丁寧などとは程遠い横柄な態度をとっている人が、普段あまりにも丁寧な対応をうけ、それが少し行き届かなければ、気に入らずどなりちらす哀れな人を駅などで 時々みかけます。 いつのまにか、幼児にものをいうように言われなければ対応が悪いと機嫌を損ねるまでになった客は、店側がそのようにさせた原因もあります。 一方、少し前、当方らの飼育用品の業者さんの一社が催された観賞魚店を対象としたメーカー品の展示会に初めて招かれ、顔を出してきました。短時間でしたがメーカーさ んの本音も色々と聞け、有意義でした。ただそのとき、私は特に来客、すなわち販売店の人々の態度を見ておりました。私は20〜30分の滞在で、ちらっと見たのはごく一部と はいうものの、彼らの業者やメーカーに対する態度には唖然とするものがありました。 私があるメーカーのブースで座って話を聞き、商談していましたら、その横で同じメーカーの別の担当者に向かって、何かの製品を薦められたのでしょう。 「タダでくれてよかったら使ったるわ。」とまさに吐き捨てる様に言って去る人がありました。どこかの小売店の人でしょう。 現場では、店の名札をつけることになっていましたが、私の名札を覗き込もうと、何人かが脇でうろちょろしておりました。 メーカーさんの昨今のやたらに新商品を出そうとする姿勢にも問題はあると思っておりますが、こんな人々に頭を下げて製品を売らなければならない仕事はまことに気の毒 だと思います。 普段、お客さんに頭を下げている反動でしょうか、自分の方が立場が強ければあのような態度を平気で取ることが本性であるならば、これは普段、お客さんから相応の指摘 をされても仕方が無いと思います。私は当日、この展示会を催された業者さんに、お祝いの粗品を持っていきましたが、ほかにもそれくらいのことをした店があったら幸いです。 我々は常に、襟を正さねばなりません。 その上で抵抗があっても言わなければならないこと、取らなければならない行動があると思います。 己の行為や態度を振り返らず、他人にだけ厳しい批評をして斬り、なにか自分が偉くなったような勘違いを持たせるシステム、そしてその厳しい批評をされたくないためにひ たすら客にこびるがごとき表面上だけは丁寧な対応をする販売者、客は絶対的に偉いという間違った位置づけがこのような社会と人間の腐食を招きます。 個々の人々が心に自浄作用を意識して持ち、自分の客として、販売者としての態度はどうだったのかということを留まって振り返る必要はあるのではないでしょうか。 アメリカナイズされてはいけない日本人の美徳 お客さんには遠慮というものがない方も多いです。普通の人間関係で、知り合ったばかりの人に、いきなり相手の欠点を指摘するなどということは普通はありません。 それができるというのは、店と客という関係は、やはり現在では現実的に対等では無いといわざるをえないでしょう。もちろん、この指摘は品質の向上のためには有難いもの であり、こちらはそれを今後に生かします。 ただ、こちらが予め掲載しているデータをさらに縫うように落ち度を無理やり見つけ出し、あるいは作りだしてでもクレームを言おうとする人も稀にあります。 「御社の●●(製品)を●●な使い方をしたときにおきる●●な問題についてはどこにも記述がありませんが、一体どうお考えですか?」 こんなことをすべて書けば、注意事項など無限に膨らんでいきます。挙句のはてに「この添加剤はあくまで魚・サンゴ用です。深海生物やクリオネ、ヌタウナギなど特殊な生 物には使用しないで下さい。」などという、滑稽なことまで書くようになります。 しかし今、それに近いようなことになりつつあります。薬局での買い物や郵便局の手続きなども、最近は使用法などにものすごく念をおされるようになりました。これはお店の 責任感があるという意味ではいい事の反面、いかに使用者が自己の責任を持たず、なにかにつけて販売側の責任として押し付けようとしているか、その攻めを普段からうけ 、恐れているかを感じずにはいられません。 これは、ひとえにアメリカナイズ、あるいはアメリカ流のグローバリズムの結果と思います。だめもとで相手に保障を請求し、返金や保障が手に入ればラッキーなどという軽 い思いつきによるものだとすれば、これは大変な人心の劣化です。おそらく、個人の良心的なお店など嫌気がさして次々にやめていくでしょう。 個々人の客が、楽しみ半分で宝くじを引くような感覚でクレームを言うようになったら、販売者はどんどん硬化・崩壊します。アメリカのように、電子レンジにネコを入れてネコ が死んだという訴えや、マクドナルドを食べ過ぎて病気になった人がマクドナルドに勝訴するような国になったら日本ももう終わりです。 弁護士の手腕だけで善悪がきまる世の中になったら、強い弁護士を雇う能力を持つものだけが正義の定義を決めるようになり、正義の基準が根本から崩壊します。 常に他人を責め、せしめることばかりを狙う、浅ましい亡者の集団になったら、国社会は退廃するしかありません。 ちなみに私はもしそうなったら商売などすぐにやめます。田舎にでも移り住んで、畑でも耕し、魚でも釣って暮らしたほうがはるかに安らぎです。 日本人は、自分の行動には潔く自分で責任を持ち、他人に擦り付けない。しかし、公のため、大勢の人のために是正しなければならないことは勇気をもって断行する。 この潔さと誠実さが美徳だったのではないでしょうか。公共心や帰属心、愛国心(これは少しはアメリカ等を見習うべきと思いますが)相手を思いやるなどという心など忘れ去 れば、個々人が自分の利益と、信じられるのはお金だけという社会になります。中国が今まさにその状態です。 我々は、古きよき時代の人々がもっていた精神をもういちど省みる必要があるでしょう。 TPPについて アメリカによるグリーバリズムなどというナウイ(死語?)言葉を吐きましたので、TPPについて触れておきたいと思います。 なぜなら、TPP参加はまさにアメリカナイズ、アメリカグローバリズムの波に日本が飲み込まれる最大の危機だからです。 私は別に今の世界情勢に詳しい訳ではありませんが、昨今議論されいる、野田総理がすでに参加協議にはいったというTPPは、ごく普通に考えても日本にとって文化と国柄 破壊の危機であり、TPP参加によってなされる関税自主権の放棄はいわば明治以前の日米の不平等条約時代への後退といえるでしょう。 TPPは、簡単にいえばそれに参加した国同志で関税を撤廃し、まるで自国内のように自由に貿易ができるようにするというものです。ISD条項により、問題が発生した場合は、 国際的な機関(世界銀行傘下の国際投資紛争解決センター)がそれを調停するというものです。これらに基本的に自国の法律は適用できません。 一見、悪いこともあるかわりにいい事もありそうな気がしますが、実はISD条項によるトラブル解決の調停を行う世界銀行の歴代総裁はアメリカの独占で、ことごとくこちらが 不利にされることは間違いないと予想されます。現に、メキシコやカナダの会社が、アメリカからの訴え、一方的な理由で多額の賠償金を支払わされています。 (参考文献 雑誌WiLL2012年1月号) 関税自主権、または関税は自国内の文化・産業を外国製品の参入から保護し、それでいて適度な貿易を行うための重要な流量調整機です。 国事態が単に経済的に豊かになるか、かえって貧しくなるかはわかりません。しかし、TPP参加によって日本は間違いなく、国柄や文化を大きく損なうでしょう。 極論すれば、日本はアメリカに経済的に併合をうけるとさえ考えられます。 明治の元勲達が、血の出るような苦労で諸外国との不平等条約を改善させ、獲得した関税自主権を、当時の政治家よりはるかに見識の劣る現代のそれらが自ら放棄するな どということは誠に愚かしく、国を自滅に追い込む以外に結果はありません。 結局は、戦後教育のなせる業か 長々と同じような内用を書いてしまいました。今回の全章を通してその原因はひとえに、人間性の欠如、その根本たる教育と環境の問題ではないかと思います。 結論を申しますと、戦後の左翼に支配された教育自体が間違っている。また、自主独立や善悪の判断を持たず、経済発展ばかりを主眼に置いた社会の方針自体に大きな 過ちがあったのではと思います。ただ、実はこれはごく近年のことで、終戦後から高度経済成長までは、実際には国民はアメリカなどに自虐史観を刷り込まれながらも、正しい 歴史をしっている人が多かっため、卑屈にはならなかったといいます。 そして、それは戦後直後のまだ戦中・戦前をご存知であった我々のおじいさん、曾おじいさんの世代の方々が多く居られた時代は、かえって少なく、その時代を知らない世代 が、外国や共産主義者の手によって偏向・歪曲された教育をそのまま鵜呑みにして日本の伝統や愛国心、自分の国の国歌や国旗すら軽蔑するという、誠に嘆かわしい社会 思想と教育によって、帰属心を欠き、結果的に公共心を欠かざるを得ない教育を受け、それがまた次の世代を教育している。その結果と言えるかと思います。 こういった教育を至急改善し、同時に別途心や行為の重大性というものをもっと教えなければならないと思います。 最後に 経営10年目にして 長々と傲慢なことを失礼しました。 店を始めてはや10年目にはいりました。本当に月日が経つのは早いものです。10年先に店をやっている保証はどこにもありません。生きているかどうかも怪しい気がします。 私のところも借金はないものの経営は決して楽観はできません。ここ2年以内に、大きな方向転換・別途の収入源を確保をなしえなければそれ以降の運営は難しくなると予想 しています。 そこでこの10年目を節目に、一度経営者・小売店のとるべき態度、一つの業界の在り方を今一度再確認したいと思いました。同時にこの業界で働く人やお客様が、反感を覚 えながらでも、どこか心に引っかかってくれればそれだけで幸いと思います。特に最終章の人間関係論は一般に相当の反感をうける事を覚悟の上で作文しておりました。 この10年、不況は年々深まり、色々なこともしましたが仕事上の記憶は思い出したくないことが大半です。いわゆるおいしい思いなど一度も記憶にありません。 しかしこんなことは当たり前で、仕事とはそういうものだと思います。食べてこられただけでも、本当に有難いと思わなければなりません。世の中には、我々などよりはるかに辛 い目にあい、また仕事をされている方がきっと多いと思います。 ただ、時代の流れの中で我々のような弱小の個人営業者が経済的、また精神的負担の中で今絶滅の危機に瀕していると思います。 実際に小さな個人のお店は年々おかしい人や、”気違い”※一歩手前のような人が増える不特定多数の人々との接触に疲れ徐々にやめていくと思います。 ※”気違い”という言葉は、近年不適切な言葉と一般にされておりますが、以前は普通に使用されていた言葉であり、アニメ あらいぐまラスカル(1977年)の中にも10回くら い出てきます。何かに夢中になるといういい意味に使用されたり、または精神を保って”気違いになってはいけない”という意味合いで使用されたことが多く、ゆえに、私は別 におかしいとは思いませんので普通に使わせてもらいます。 私の周りも個人で小売業を営む人と話しますと「できればやめたい」という声がしきりです。ついでに生まれ変わってとか、今後もし別の仕事をするならどんなものがいいかと 聞きますと、「職人とか、とにかく人とあまり触れ合わない仕事にしたい。」という返事です。今の自分の本業を根本的に愛せなくなるのは、誠に不幸です。 今、もしお店をやるならば、すくなくともそういう頻発するトラブルのダメージを分かち合える複数人数で営業する形態でなければやっていくのは精神的に厳しいと思います。 私は今後少しづつ経営の方法をかえつつもできるだけ長く小売販売を継続するつもりですが、なんとなく終焉がうっすらと先に見えてきたようにも最近は思います。 ただ、人を大事にしていれば、それなりに道は開けてくるものだと思います。 社会を支える小さく堅い成功 私自身、別に成功した訳でも何でもありません。ただ、拙い店を細々と経営しております経営者です。 しかし、人に貸しても借金はありませんし一定のご声援とご指示も常に頂いております。当方が作成、また販売している見た目の悪い製品でも多くの方が使ってくださっていま す。 もちろん自分はいわゆる大成功などするような器ではありません。真に社会や人様に役立つことをして、結果大きな利益を得、大成功されることは、大変立派なことだと思いま すし、それで利益を得ることを悪いことなどとは決して思いません。 ただ、人より多くの金を稼ぎ、贅沢な暮らしをして有名になればそれが成功なのだとしたら詐欺師でも成功は成功です。 若者が物作りやそれ以前に、自分の仕事で”人を生かす”、社会に血液や栄養を送り込むという気概を持たず、ただマネーゲームで他人の会社をかすめとるものがうまいもの が勝者なのだとしたら、こんな勝者は願い下げです。これは虚業というものです。 私はそんな成功より、仮に小さなお店でも何十年もの間、朝早く起きておいしいお豆腐を作り、近隣の人々に親しまれ、喜ばれて確かな存在感を持つ、堅実な人の方がはるか に立派な国家構成員であり、自分の天職を日々まっとうされている成功者であると思っております。 ただ、その中でも毎日同じ事をするのではなく、少しでも日々改善する努力を行なうことは必要かと思います。これが、不況を乗り切り、結果的な成功に通ずる道ではないか と思います。 確かに、成功した商法は、規模を拡大し宣伝すればその分利益が上がります。では”何のために”拡大するのかということが問題になります。単に自分が得る利益を拡大す るためにこれをするなら、これは他者を圧迫するだけのものになります。そこのお客さんに、自分の開発した良いものをぜひ使ってもらいたい、知ってもらいたい、あるいは雇 用をつくりたい、稼いだお金で社会に貢献したい、などという目的で行なうなら、拡大の目的として有意義であると思います。 しかし、他者を圧迫し、他者を廃業させておいて雇用を作るというのもおかしな話です。拡大は、社会が必要としていたら行なうようにしなければ、他人が食べるものを奪う、 単なる強欲、”肥大”になります。 これはポピュリズムでもなんでもありません。第一、誰もが人を押しのけて他人より多い収入を得ようとして、上記のようないわゆる”成功”を目指したら社会はめちゃくちゃに なってしまいます。現に私の属する観賞魚の世界でも、一部の大型通販店等が自分に客をひきつけるためにはてしない価格競争を行い、結果業界は縮小しきりました。 結果、そういった店の中には、自分達がつかいものにならなくしたこの業界に見切りを付け始めているところもあるというありさまです。こういうお店は、価格破壊の店ではなく ”業界破壊型”の店ではないかと思います。 意図的にせよ結果的にせよ、明確な必要性も無いのに肥大して他者をつぶし、己が利益を独占することが如何に社会や全体、公を害するか、自由競争の社会ではこれを 充分に認識しておかなければなりません。調和と発展は人類が等しく目指すべきものです。発展にはある程度の競争は確かに必要です。 ですが本来、競争と調和の両立は難しいものです。そのための競争は互いを高めあい、相手が倒れかけた時には手を差し伸べる人間の心、あるいは武士道を残した競争 、またあるいは、相手が悪であれば時には公のためにあえて斬る勇気も必要になるでしょう。 そうやって、善悪の判断をわきまえて健全な競争社会を作ることが、我々の家であるこの国を将来を約束することになるのではないでしょうか。 またそういう態度を会社であれ、個人であれ、貫いていくことが、信用にもなるのではないかと思います。 今、あくまで私の狭い了見ではありますが、海水魚の世界は数年前からの予想通り、景気も信用も落ちるところまで落ちたという印象があります。 生体の品質、サポートを無視した激安店の台頭、メーカーの広告料目当てで業界に絡んでくる雑誌等の広告主の製品セールスのためのプロパガンダによってかき回され た情報、誇大宣伝で闇雲に新製品を打ち出し、大型店にだけ異常な優遇をする大メーカー、そしてそれに愛想をつかして疑心暗鬼、疑いの目をもたざるを得ない一般の消費 者。このような一時の混乱期も終息に向い、結果、数年前より一層低下した信用と景気の中に我々はありますが、ようやく再出発ができる状態になったともいえるのではない かと思います。 目先のエサにしか興味が無い病原菌は、自分のホストを殺せば己も一緒に滅ぶということを知りません。共存協栄のためには相手を生かし、全体を、続いていく将来を作る という公共心が必要なはずです。お金というものは、それを回すために間を流れる潤滑油に過ぎないと考えるべきではないでしょうか。 私が今回、たかが下らぬ通販店がこんな偉そうな傲慢極まりない事を書こうと思いましたのは、こういったことを大勢の方が考えなければ、もはや将来が無いと思うが故で す。人によってはたかが商売人が偉そうに、という見方もされるでしょうし、商売人は商売人らしく、浅ましく商売だけしてればよいのだ、という、商売人に対しての卑しみを持 っておられる方も、残念ながら存在しています。 しかし、これは販売サイドの誰かが言わなければならないこと、そしておそらくは今後も自分の名前をきちんと表明しては誰も言わないであろうことだと思います。 匿名で書かれたことは、ほとんど効果がありません。なぜなら、誰が、どのような立場で、何の目的で書いたか分からないからです。 責任もなく、ただ自分の不満をぶちまけるだけの誹謗は、便所の落書きの域を出ません。 私の好きな作家(漫画家)ゴーマニズム宣言で有名な小林よしのり先生は、ネットの誹謗は便所の落書き、それも自分のクソで書いた落書きであると言われ(書かれ)ま したが、この表現ほど的を得ているものは無いと思います。 今の人々の標準的な心は、決して人間本来の標準ではありません。 世界がなかば破滅に向かっている人々の標準が、本来の基準であるならば、我々は単に滅亡するために生まれてきたことになります。 そうではないはずです。調和と発展のためにはどうすれば良いか、相手の立場にたってものを考え、互いを支え合い、それでいて互いの違いを尊重して生きるという、ごく どこでも耳にする当たり前のことを、奇麗事よばわりしなくて済む状態にすることではないかと思う次第です。 長々と失礼致しました。 ご精読、深く、深くお礼を申上げます。ほとんど1年をついやしてしまいましたが、せこい個人商店の経営品格論でした。 有難うございました。 拝 -------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------- |